映画「祈りの幕が下りる時」
キーとなる12の橋、ご紹介します ⑦
ー 7月 日本橋 ー
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
『映画「祈りの幕が下りる時」 キーとなる12の橋、ご紹介します』シリーズ、今回は第7回、日本橋(にほんばし)をご紹介します。
このシリーズは映画「祈りの幕が下りる時」に登場しました橋、キーとなる12の橋を、月ごとにご紹介してまいります。
それでは・・・
「祈りの幕が下りる時」での日本橋は・・・
(画像は「祈りの幕が下りる時」単行本表紙です。明治座の緞帳と客席です。)
加賀刑事は、博美に写真を見せます。
その写真には博美が写っており、背景の様子から日本橋の橋洗いの日に撮られたものとわかります。
8年前のものでした。
この橋巡りの件を切り口のひとつとして、加賀刑事は博美を追いつめていきます。
日本橋を含む12の橋は、そういったところで引用された、謎解きアイテムだったのです。
「12の橋」は、このお話の中で重要な部分ですが、他にも数々のキーが隠されています。
とても引き込まれるお話です。
(画像は「麒麟の翼」単行本表紙、日本橋上の麒麟像です。文庫本も麒麟像を表紙としています。)
日本橋
日本橋1丁目 ~ 日本橋室町1丁目
ー 架橋100年を超えた石造アーチ橋 ー
慶長8年(1603年)に初めて架けられたといわれ、翌年には五街道(東海道・中山道・日光道中・奥州道中・甲州道中)の起点となり、日本の中心、江戸繁栄の象徴となった。
明治に入ってからは、この橋の中央が国道の起点と定められ、明治44年(1911年)に「東京市道路元標(げんぴょう)」が建てられた。
その後、都電の廃止に伴い、この元標は日本橋室町寄りにある橋詰広場に移設された。
現在、橋の中央には「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれており、「元標の広場」でそのレプリカを見ることができる。
また、江戸時代に高札場(こうさつば)のあった南詰西側の「花の広場」には、昭和11年(1936年)に日本橋区が設置した「日本橋由来記」の碑がある。
現在の橋は石造2連のアーチ橋で、明治44年に完成した。
装飾を担当したのは建築家の妻木頼黄(つまきよりなか)で、装飾部分には妻木がデザインした麒麟と獅子のブロンズ彫刻が施されており、明治期を代表する野外彫刻として高く評価されている。
橋の中央に橋灯(きょうとう)にある麒麟像は、完成当時の東京市の繁栄を表現し、橋の四隅にある獅子像は守護を表している。
平成11年(1999年)、国の重要文化財に指定。
平成23年(2011年)には、日本橋架橋100周年を記念するイベントが日本橋地域で開催された。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
麒麟像
獅子像
名橋「日本橋」橋洗い
~ 名橋「日本橋」橋洗い (毎年7月の第4日曜) ~
名橋「日本橋」の環境美化を目的とした、橋の大掃除です。
地元町内会や周辺企業など、日本橋にゆかりのある人々が集まり、清掃活動を行います。
ー 名橋日本橋保存会 ホームページ より ー
名橋「日本橋」橋洗い
ーブラシやたわしで日本橋の汚れを落とすー
年に一度、日本橋で行われる夏の風物詩。
消防署員による放水が行われた後、参加者はデッキブラシやたわしで路面や欄干を磨いて一年の汚れを落とす。
平成23年(2011年)には、日本橋架橋100周年を迎えたことを記念して日本橋船着き場に設置した「双十郎河岸(そうじゅうろうがし)」記念碑の完成式典が行われた。
日時 / 7月第4日曜日
場所 / 日本橋
日本橋魚河岸の発祥
ー 板舟に魚介類を並べて販売したのがはじまり ー
天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入府した後、摂津国西成郡佃村(現在の大阪市西淀川区)の漁師たち30数名が江戸に出て佃島を造成し、江戸近辺で漁業を営む許しを得て、徳川家に魚介類を献上した。
当時の海では魚介類がおもしろいようにとれたため、上納しても余りが出る。
そこで漁師たちは、幕府の許しを得た上で、水運のよい日本橋の河岸で板舟と呼ばれる販売用の板の上に魚介類を並べて一般に売りはじめた。
これが日本橋魚河岸の起源である。
魚河岸は、日本橋と江戸橋の間の北岸にあり、魚を積んだ船は日本橋川をさかのぼって河岸に肴を陸揚げした。
早朝から多くの買物客で賑わい、朝の魚河岸は、昼の芝居小屋、夜の吉原と並んで、「1日で千両がおちるところ」とまでいわれるほど繁盛した。
明治に入って日本橋周辺の都市開発が急務となった。
そして関東大震災の発生により、市場が焼失したため築地への移転が決定し、ついに日本橋魚河岸300年の歴史は閉じられた。
現在、跡地には「日本橋魚市場発祥之地」の石碑(日本橋室町1-8)が立つ。
記念碑の隣には、龍宮城の住人である海の魚が、ことごとく日本橋に集まったという意味を込め、乙姫をイメージした像が置かれている。
平成30年(2018年)10月、「日本の台所」を支えてきた築地市場も83年の歴史に幕を閉じ、豊洲(江東区)へと移転した。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
日本橋魚河岸跡
日本橋室町1丁目8番地域
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。
ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。
この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町1丁目・本町1丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。
なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、1日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
この魚河岸は、大正12年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和29年(1954年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
平成19年3月 中央区教育委員会
日本橋魚市場発祥の地碑
乙姫の像です。
ありとあらゆる魚が集まる、からの竜宮城イメージ、そこで乙姫登場、とのことです。
双十郎河岸(そうじゅうろうがし)
日本橋架橋100周年を機に造られました「日本橋船着場 双十郎河岸」にあります「双十郎河岸」の記念碑です。
歌舞伎役者、東の十二代目市川團十郎丈と西の四代目坂田藤十郎丈がここから船に乗り込んだことを記念して、双十郎河岸と呼ばれるようになった、とのこと。正式名称は「花河岸」だそうです。
・・・日本国道路元標、高札場(こうさつば)、日本橋由来記など、日本橋に関しましてはご紹介したいポイント満載です。非常に多いです。
とても残念ですが、今回のご紹介はここまでとさせていただきます。
日本橋
日本橋1丁目 ー 日本橋室町1丁目
中央の赤丸の橋が日本橋です。
流れる日本橋川、上流(左側)には西河岸橋、下流(右側)には江戸橋が架かっています。
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