特別対談『近江と忍者』淡海歴史研究所所長 太田浩司
三重大学人文学部教授 山田雄司「ここ滋賀」於収録

近江と言えば滋賀県、日本橋では近江商人が有名です。
近江と忍者はどう結び付くのかと考え、甲賀(こうか)忍者だと思い当たりました。
甲賀忍者は伊賀忍者と相対的に捉えられているので、「こうがにんじや」と誤って認識されているのが残念です。
『甲賀忍者のイメージは悪役というような印象を持っているのは私だけではないのではないか』『実はどうなのか、真実を知りたい』と思っていました。
忍者のイメージは、映画、ドラマ、アニメなどで作り上げられているものであると考えると、なおさら本当の忍者の姿を知りたいという衝動に駆られました。
今回、真の忍者の姿を対談の中で理解することができると、ワクワク感に駆られました。
滋賀のアンテナショップ「ここ滋賀」2Fレストランで、収録が行われました。
そこに、中央区観光協会特派員として同席させていただき、貴重な体験をさせていただきました。
この対談は、滋賀県人会東京ホームページYouTubeにアップされています。
https://www.youtube.com/watch?v=vDEmALU7biA44
是非、ご覧ください。
対談の中で甲賀市が誇る忍者文化の実像と歴史的背景と忍者文化を現在にどう活かしていけるのかを探ることも目的の一つです。

司会者 福島崇仁甲賀市地域プロジェクトマネージャーが進行し、
①講師の先生の紹介
太田浩司氏 淡海歴史研究所所長・長浜市曳山博物館館長
近江の歴史に詳しく、長浜市・北部・南部・甲賀市
山田雄司氏 三重大学人文学部教授・国際忍者学会会長 忍者研究の第一人者・全国・世界中で講演
お三人の忍者トークが軽快にスタートしました。
甲賀忍者と伊賀忍者の作り上げられたイメージ!
①忍者の姿はどこから?
江戸時代に始まった歌舞伎から、忍者装束や手裏剣などが出てきたそうです。
②甲賀忍者と伊賀忍者の創作上のイメージと実像を探ると
「仮面の忍者 赤影」「忍者 ハットリ君」「スーパーヒーロー」
社会背景によって「くのいち(女の忍者)」が出てくるが、甲賀には「くのいち」は存在しない。
孤独な存在の忍者・忍の者・激しい修行をし、様々な忍術を使う。
などなど、忍者のイメージはアニメ一つとっても実像からかなりかけ離れた存在となっていると思われます。
忍者の起源はどこにあり、どのように忍者が生まれたのか?
①聖徳太子の志能備が初?-聖徳太子が忍者説も伝聞されている。
②どのように忍者は生まれたのかの時代的背景
●近江国における甲賀郡はどのような位置付けだったか?
甲賀総社 油木神社ー戦国時代の社殿が残っている。歴史に残る合議をこの場所で行ったそうです。
甲賀の地形は、治外法権の場所としては伊賀と同じでした。
●甲賀の「同名中」「甲賀郡中惣」
甲賀の中世城館は、「単郭方形四方土塁」と呼ばれる一辺50m四方を土塁で囲んだ形を固執していたのです。同じ四角形の城を築き、「新宮支城」は10mの土塁で築かれていました。
甲賀忍者の活躍を史料からひも解く
甲賀忍者がいなかったら、江戸時代はなかったかもしれなかった!
①六角氏と甲賀忍者
●鈎(まがり)の陣とその成果
将軍足利義尚から近江六角氏を守りぬく。
室町幕府の権威失墜・鈎の陣
●甲賀53家・21家
「甲賀古士之事」1712年に、甲賀53家・21家の由緒が書かれています。
1487年足利義尚に反逆した六角政頼父子に甲賀城主らは義尚陣中に鈎の里での夜討ちなど、21騎の軍功を認められた。
義尚は敗走の時の手傷がもとで26歳で他界した。
1493年足利義材が出陣、六角高頼は甲賀城に籠り、53家と連合。
特に軍功が著しく、感状を貰った21家といわれています。
観音寺城の戦いで、織田信長に攻められた六角義治は城を放棄して、甲賀郡に逃れます。
②織田信長と甲賀忍者
信長の敵対を避けて、味方する。
伊賀の壊滅・甲賀の存続・天正伊賀の乱では伊賀と戦う。
③豊臣秀吉と甲賀忍者
天下人秀吉が徳川の戦で、徳川に味方したことで甲賀忍者の知行取り上げ・武士の身分をはく奪する。
④徳川家康と甲賀忍者
本能寺の変後、神君伊賀越えで家康を絶体絶命の危機を助け、生還させる。
徳川幕府に士官した甲賀組は江戸に赴いたが、関東移転を断る甲賀忍者もいた。
甲賀在住のまま他藩に家臣(忍者・鉄砲同心)として抱えられた者もいたようである。
甲賀流忍術の極意!
忍から学ぶこと。何を継承していくかべきか?
①忍術・忍術書とは
●「間林清陽」は「万川集海」のもとになった忍術書と言われている。
●「万川葱海」真田宝物館所蔵-寺社奉行に提出した忍書
1678年倉林保武著 伊賀国湯船村在住
巻一 「正心篇」正心なくして謀計は成就せず、仁義忠信を守る。
「忍びとて、道に背きし、偸(ぬすみ)せば、神や仏の、いかで守らん」などの
三種の忍歌が付け加えられています。
正心を実践するには、酒・色・欲の三つを禁制
「刃の心と書ける字をもって名としたことには深意がある。この意味を悟らず
しては、この道に入りがたいので忍と名付けた」と位置付ける。
陽術は「謀計の知恵をもってその姿をあらわしなら的中に入る」ことで「もろ
もろの生業の芸、物まね等に至るまで手練れとすること」「諸国の地理・風俗
等の模様を知るべきこと」
陰術は「人の目を忍び入ること」「騒がしい時に忍び入ること」で「月が出る
前か沈んでから忍び入ること」「騒がしい時に忍びやすい」などと常識的。
「天時」では孫子を引用。上手は吉凶方角に関わらず勝つが、これを無視して
しまうと臆病者を勇まして進み、愚かなる者を使う方法が無くなると詭道を
説く。
(《甲賀忍者》の実像 藤田和敏著 参照)
②甲賀流の特徴は
甲賀武士の極意は時代と情勢に応じて、自分たちが生き抜くための選択や処世術に非常に長けていたと思われます。
甲賀は伊賀よりも京に近く、攻め込まれるのも有力者が落ち延びるも甲賀で、より多くの情報や決断の機会に遭遇しました。このような土地だからこそ、生き残るための情報力や知恵を育まざるをえない環境に置かれていたのです。
③忍者から学ぶ生きる術
〇生存するための術
・当時の最先端の科学(天文・薬学・医学・心理学)の知識が忍術に凝縮されている。
・災害時において忍術を活かすことも摸索されている。
・風土から生み出された忍術は持続可能な社会を作っていくための知恵として、現代に
も役に立つ。
特産品 「近江の茶」 信楽町朝宮・土山町頓宮

近江は日本茶業発祥の地延暦寺の開祖・最澄が(中国)から持ち帰った茶の種子を比叡山の麓に植えたのが始まり
滋賀県南部の甲賀市は、日本五大銘茶に一つ
香り高い良質な『朝宮茶』・茶葉の摘み取り前に覆いをかぶせて旨味を増し、渋みを抑える「かぶせ茶」が盛んな『土山茶』
生産量・栽培面積とも滋賀県下一を誇る
お茶は体にいいともいわれ、薬にもなると言われています。
甲賀忍者とお茶が結び付くのは当然のことかもしれません。
写真のお茶は「ここ滋賀」アンテナショップ日本橋で購入できます。
ホームページhttps://cocoshiga.jp/official/floorguide/
是非、召し上がって下さい。


講師のお二人と記念にお写真を撮らせていただきました。
約2時間の対談の中で、甲賀忍者に対するイメージが大きく変わりました。
その上、忍者の起源や忍者の定義、現代に継承していくべき忍者の精神を今日のお話から学ばせていただきました。
今回の特別対談『近江と忍者』に興味のある方は、次回の『甲賀忍者の特別対談』も楽しみにお待ちください。
(太田浩司淡海歴史文化研究所所長・山田雄司三重大学人文学部教授・内田真由子東京滋賀県人会副会長様より記事・写真記載のご了承をいただきました。)