ぴっか

初鰹~この句の作者は誰?

「卯の花月」歌川豊国 

東京都立図書館デジタルアーカイブ

棒手振りの魚屋さんが長屋に売りに来た鰹をさばいています。周りにはお皿を持った笑顔の女性たちが集まっています。

当時高価だった初鰹。1本を共同で購入し皆で分け合って食べるのでしょうか?春の風物詩、初鰹を食べられるとあってみんな嬉しそうですね。

犬まで興奮して騒いでしまっているのを前掛けをした丁稚さんが抑えています。この子どもの左上の奥の部屋に大根をおろしている途中とみられるものがあります。この家では鰹の薬味に大根おろしを使うのでしょうか。

皆さんの家では鰹のお刺身の薬味は何を使われますか?おろし生姜や山葵、ネギでしょうか。高知ではにんにくが一般的なのでしょうか?

幸せそうなこの絵とは対照的に鰹と薬味をめぐる悲しい句があります。

三宅島で詠まれた句

はつ松魚(はつがつお)からしがなくて涙かな

 

その芥子きいて涙の初かつお

 

上の句をもらった人が下の句を返句として返したものです。

流刑地三宅島に島流しにあった人は、江戸にいるときより容易に鰹を手に入れられたのでしょう。鰹を食べることはできるけれど薬味の芥子がなくて悲しい。と流刑地での悲しみを句にして友人に送ると、友人は流刑地での友の孤独をおもい、芥子でツンとして涙がでることに掛けて涙の返句を返したものです。この人たちは薬味として芥子を使っていたのですね。

さて、この句は誰がよんだものでしょうか。どうも2説あるようです。

生島新五郎と二代目市川團十郎

生島新五郎と二代目市川團十郎
 初鰹~この句の作者は誰?

『新撰東錦絵生島新五郎之話』月岡芳年 

東京都立図書館デジタルアーカイブ(絵の人物は江島と生島新五郎)

6代将軍家宣の側室であり7代将軍家継の生母であり大奥で実権を握っていた月光院。その月光院に仕えていたのが江島(絵島)。江島は月光院の名代で増上寺へ参拝へでかけます。その帰りに御用町人たち(大奥での利権を手に入れたい)からの接待で木挽町(現在の東銀座、歌舞伎座附近)の山村座で生島新五郎の歌舞伎を鑑賞。その後江島とおつきの女中たち、そして生島新五郎は宴席へ。宴は盛り上がり、江島は大奥の門限に遅れてしまいます。この件で江島と生島は不義密通の疑いを掛けられてしまいます。これは家宣の正室である天英院が月光院の失墜を狙った陰謀ではという説もあります。

江島には遠島の判決が下りますが、月光院の嘆願により高遠藩内藤清枚にお預けとなりました。お預けといっても、狭くて窓に格子の入った囲み屋敷での幽閉生活は過酷だったようです。大奥での利権をむさぼっていた御用町人たち、宴席に参加していた女中たち、江島の兄弟たち、山村座座元にも厳しい処分が下り、山村座は廃座となりました。

生島新五郎は三宅島へ遠島。そこで詠んだのが、「初鰹」の句。それに対する返句は2代目市川團十郎という説があります。

 

【生島新五郎、市川團十郎説の出典】

『幻の料亭 日本橋「百川」』小泉武夫 新潮社

 歌舞伎座のコラム 松下幸子千葉大名誉教授     

英一蝶と宝井(榎本)其角

英一蝶と宝井(榎本)其角 初鰹~この句の作者は誰?

『人物雑画巻 大原女図』英一蝶 

国立文化財機構所蔵品統合検索システム

上の絵は大原女が柴を頭に載せて行商に行く途中です。若い女性が商品の柴を踏み台にして軽やかに乗り、梅枝を折り取ろうとしています。それを少し年上の女性が叱ることもなくゆったりと見守っています。一蝶の絵の市井の人々は軽やかであり、おおらかな時間を生きているように感じます。

元禄年間の画家、英一蝶(はなぶさ いっちょう)。一時期、中橋狩野派(京橋1丁目 歌川広重住居の隣)の当主狩野安信に師事しましたが、その後上の絵のような都市風俗画で活躍します。

時を同じくして松尾芭蕉やその弟子、宝井其角と俳句で交流を深めます。

『武蔵曲』という句集には芭蕉、一蝶(俳号 暁雲)、其角の句が並んで掲載されています。(リンクのp8)名だたる俳人に挟まれての掲載はさぞ誇らしかったことでしょう。

その彼がなぜ三宅島に?

一蝶は吉原で有能な太鼓持ちでもありました。大名や豪商に取り入って、吉原にくりだしては金銀をばらまかせることが得意でした。ある時将軍の縁者をそそのかし花魁を身請けさせたことが問題となりました。このことに加え柳沢吉保が出世のために妻を将軍綱吉の側室にさしだしたゴシップを風刺した絵を描くという問題を起こし遠島になりました。

 

三宅島に送られるときに、一蝶は其角に

「三宅島のくさやの干物は江戸へ送られるので干物のエラに笹の葉をさしておこう。笹の葉のついている干物を見つけたら、無事だと思っておくれ。」

其角は魚屋の店頭でエラに笹の葉のささったクサヤを見つけて泣いて無事を喜んだ。という話があります。

遠島の間も二人の友情は続き、「初鰹」の句を英一蝶が詠み、それに対し宝井其角が返句を送ったという話になります。

三宅島での暮らしも綱吉の死による特赦で12年で終了。しかし、10年目に其角が亡くなっていたので二人の再会は叶いませんでした。

 

【英一蝶、宝井其角説の出典】

『英一蝶展 図録』昭和59年 板橋区立美術館

『英一蝶展 図録』令和6年 サントリー美術館

『江戸の流刑』小石房子 平凡社新書

真実は?

ここまで読んで、みなさんはどうお考えになるでしょうか?

実際の所本人が詠んでいない句を物語の中であたかもその人が詠んだかのように伝えて話を盛り上げることはあると思います。

師匠、松尾芭蕉はワビ、サビを尊び自然風土をよむ作風でしたが、弟子の其角はそれとは異なり、市井の人、人情の機微をよむ作風でした。題材は親しみやすくわかりやすい句に見えるのですが、和歌、漢詩、漢籍、下世話な物語まで幅広い知識を句に織り込んでくるので実は難解な句も多いです。

その其角の句とされるものでとてもわかりやすいのが次のものです。

・ 梅が香や隣は荻生惣右衛門

茅場町薬師の辺りに住んでいた其角が、うちの隣にあの有名な荻生徂徠先生が住んでるんだぜ!という自慢のような明快な句です。

しかし、この句ついて『江戸名所図会』巻之一「俳仙宝晋斎其角翁の宿」では 「その可否はしらずといえども」と、其角の句ではないのではないかと疑問を呈しています。其角の句がどうかはわからないけれど、其角と荻生徂徠は家が近かったことがわかる。という解説になっています。後の誰かが其角と荻生徂徠について語るときに其角の句として作ったのかもしれませんね。

初鰹の句も誰が詠んだのか明らかにしなくとも、三宅島に島流しにあった生島新五郎、英一蝶の人生をしのぶ薬味になるので、それでいいのかなと。

 初鰹~この句の作者は誰?
 初鰹~この句の作者は誰?

 

 

 

碑の裏に「日本勧業銀行 頭取 横田郁 筆」とあります。

 

【其角住居跡】

(アクセス) 東京メトロ 茅場町8番出口 みずほ銀行茅場町出張所

※ 碑の角の細い道を入ると智泉院(茅場町薬師)と 日本橋日枝神社(摂社)があります。