芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

5月の終わり 芥川龍之介 が自作した詩12編を綴った冊子が見つかったと新聞で知りました。

「存在は知られていたが行方が分からなかったもので、”幻の詩集”と言える貴重な資料。」

北区のJR田端駅前の 田端文士村記念館 で企画、公開されました。 

すっとこどっこいにとって田端駅はJR山の手線の駅の中で唯一改札口を通ったことの無い駅でした。そのこともあり行ってみたくなりました。

 

 芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

田端に 芥川龍之介 が住んでいたことと仲良しの室生犀星もいたことは知っていましたが、中に展示されていた田端に住んでいた文化人の数の多さには驚きました。記念館に置いてあった田端散策マップに載っていた菊池寛や堀辰雄等の小説家、萩原朔太郎や野口雨情・サトウハチローら詩人から漫画のらくろの田川水泡などの旧宅が63ヶ所も記されています。

詩の冊子も含め、館内は撮影禁止で写真はありません。拡大コピーされた12編の自作の詩が展示されていました。 芥川 の全集には載っている詩だそうです。確認されていなかった原本を今年の4月になって記念館が都内の古書店から入手したものだそうです。

 

 芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

 芥川龍之介 は1892年に東京市京橋區入舟町八丁目に産まれます。父は元長州藩の農民兵であった新原敏三(にいはらとしぞう)。母は本所小泉町の士族芥川俊清の三女フクです。敏三は渋沢栄一らが設立した牧場の耕牧舎に入ります。箱根仙石原にて開拓された牧場の東京支店が外国人居留地の予定地に作られます。現在の中央区明石町です。

耕牧舎については、Hanesさんのブログ"芥川龍之介の生誕地「耕牧舎」の謎に迫る”が詳しいです。

https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=1916

 

写真の説明版は以前、浅野内匠頭邸跡の隣に設置されていました。数年前に現在地に移転されました。

築地外国人居留地の研究に詳しい川崎晴朗さんの研究によると耕牧舎の建物は大小2棟あり、現在の地図に置き換えると説明版の位置あたりだと結論づけています。

明石小学校はすっとこどっこいの母校です。担任の先生が 芥川龍之介 はここで生まれたと言いました。「明石小学校ってすげぇなぁ」と思った記憶があります。説明版の位置の小さい方の建物で産まれたのなら小学校からは10mほどの距離であながち間違いでもなさそうです。

 芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

父の新原敏三が後厄の年、母のフクは本厄の年に産まれました。厄払いの意味で、一旦捨てられて、すぐ拾われた捨て子にされます。場所は教会の前だそうです。丈夫に育つために秀吉がした行いと一緒ですが、厄払いが教会の前でよかったのでしょうか。辰年の辰月の辰の日の辰の時に産まれたと言われていて、 龍之介 と名付けられます。

生後7ヶ月ほどで母フクは精神に異常をきたし実家に預けられます。この当時、子供が出来ないと離縁されたり、病気で子育て出来ないと実家に治療費を負担させたり、実家に戻された例がかなりあったそうです。

母の実家は本所區小泉町十五番地、現在の墨田区両国三丁目です。長兄の芥川道章が引き取ります。

11才の時、母フクを亡くし、翌年から道章の養子となり芥川姓を名乗ります。

後に居留地の牧場の記憶を語った文章を書きます。7ヶ月で連れていかれ記憶があるとは思えませんが、牧場には姉もいたし、実父は母フクの妹と再婚します。その叔母もいたので幼少期に牧場へ行ったのかもしれません。

京葉道路に面して 芥川龍之介生育の地の説明版があります。

 

 芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

上記写真の説明版から10mほど離れてまた説明版があります。同じく 芥川龍之介生育の地と書いてあります。両国三丁目の21番地と22番地で、各々で立てているようです。内容はほぼ同じです。

 

こちらの説明版には地図があります。 芥川龍之介 が育った家と回向院と彼が通った小学校に印がついています。実家は21番地と22番地の境なのでしょうか。

京葉道路の向かい側の住所は本所松坂町となっています。

 芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

本所松坂町に吉良上野介が移ってきて、元禄15(1702)年に赤穂浪士が討ち入った屋敷跡です。当時は東西733間(134m)南北34間(63m)あり2550坪の広さと言われています。

京葉道路は両国橋を通る道なので元禄期もあったと思われ、芥川の家が吉良邸の跡地にかかっていたとは考えられませんが。吉良邸跡のすぐ横に 芥川 の通った小学校があります。頻繁に通ったと思われ、公園になっていたので遊んだ場所でもあったと考えられます。

すっとこどっこいは以前 ”忠臣蔵一考察” というブログを書いたおり、吉良邸跡の写真を撮りにきて、すぐそばに 芥川龍之介生育の地があることを偶然知りました。頭のよかった 芥川龍之介 は自分の産まれた場所が浅野内匠頭屋敷跡で育った家が吉良上野介の屋敷跡の前だということを気付いていたのではないでしょうか。

何か不思議な因縁があったのでしょうか。

 

 芥川龍之介 生まれた場所と育った場所の因縁

中央区 芥川龍之介 との関係をもう一つ。

の業績を記念して、友人だった菊池寛が創設したのが 芥川龍之介賞です。

その選考会の会場となっているのが築地の老舗料亭 新喜楽 です。

1階が 芥川賞 の選考会、2階が直木三十五賞の選考会の会場だそうです。

以前 ”あさが来たに思う” というブログを書いた時、新喜楽は支援者の一人になる大隈重信の屋敷があった場所なので写真掲載の許可をもらいに行きました。応対していただいた取締の方に 芥川賞 の選考会場なんですねと聞いたら「昔からそうなんですよ」と言われました。主催者の事務局があった文芸春秋社が当時銀座界隈にあり、よく新喜楽を利用していたからのようです。

映画 ”続・Always三丁目の夕日” で 芥川賞にノミネートされた吉岡秀隆演じる小説家の茶川竜之介に落選の電話がくるシーンがあります。新喜楽からかかってきたのでしょうねぇ。