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小田原ゆかり探しの旅(前編)

 

暑中お見舞い申し上げます。暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか。

さて、今回のブログは「小田原ゆかり探しの旅」と題し、中央区とのかかわりを探るべく、小田原を訪れ、その様子を2回にわたってご紹介したいと思います。今回はその「前編」となります。

 

<ブログの構成>

前編(6/20訪問)

・ プロローグ
・ 東照宮とは ~神格化された徳川家康~
・ 小田原に「東照宮」があった!
・ 中央区の「小田原」~その由来と名残~

後編(7/12訪問)

・ 敷地内東照宮 ~私邸に宿る静かな恩義~
・ 中央区から譲り受けた「小田原橋」の親柱
・ エピローグ

 

*トップ画像は、東海道線・小田原駅改札口の上に設置されている「小田原提灯(おだわらちょうちん)」をモチーフにした巨大なオブジェ(高さ4.5m、直径2.5m)。小田原提灯は、江戸時代中期、享保年間(1716~1736)に活躍したとされる、小田原の提灯職人「甚左衛門(じんざえもん)」が、箱根越えをする旅人が携帯しやすいように、折り畳める提灯を考案したのが始まりといわれています。

 

プロローグ

6月下旬の金曜日、その日は午前中に健康診断があり、午後からどこかへぶらりと小旅行をしたいと考えていました。検査は昼前に終わり、「さて、どこへ行こうか。何をしようか」と思いを巡らせながら東京駅へ。乗り込んだのは、熱海行き東海道線の各駅停車でした。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)

かつて東海道線で活躍した国鉄80系電車(クハ86023)、通称「湘南電車」を模したデザインのコンビニ(藤沢駅停車中に車内から撮影)。

 

行き先に選んだのは、小田原。歴史と文化、そして豊かな自然があふれるこの町は、私が何度も訪れている、大好きな場所です。

列車に揺られながら、「今日はどこを見ようか」「中央区との繋がりはどこにあるのか」などと考えていると、やはり、かつて中央区に存在した「小田原町」が鍵になると思いました。ならば、その地名のルーツとされる石材運搬(※)を抜きに語れない…、そう考えがまとまり、こうしてまた「ゆかり探しの旅」が静かに始まりました。

スマートフォンで検索をしていると、天正18年(1590)に起きた小田原合戦の後、徳川家康にその技量を見出され、家康に仕えた、小田原の石工棟梁「善左衛門(ぜんざえもん)」という名が見つかり、今もその子孫が石材店を営まれていることを知りました。

さらに、家康公に恩義を感じて私邸敷地内に東照宮を祀ったという一文に目が留まり、その石材店を訪ねてみることに。しかし、突然の訪問だったため、お話を伺うことは叶いませんでした。

そこで、列車の中であらかじめ調べておいた、もう一つの東照宮へ向かうことにしました。

 

※ 2024年5月に江戸の城と町を築いた伊豆石 ~伊豆石のふるさとを訪ねました~というタイトルのブログを書いていますので、こちらもご覧いただければ幸いです。

東照宮とは ~神格化された徳川家康~

最初に、東照宮について理解を深めておきたいと思います。

東照宮とは、江戸幕府を開いた徳川家康を神格化し、「東照大権現」として祀る神社です。

家康は元和2年(1616)4月17日、駿府城(現在の静岡市)で75歳の生涯を閉じました。

家康には側近に残しておいた遺言があり、その側近の一人、金地院崇伝(こんちいんすうでん)(永禄12年(1569)~寛永10年(1633))が記録した『本光國師日記(ほんこうこくしにっき)』(元和二年卯月四日条)によると、その遺言は、①久能山への埋葬、②増上寺での葬儀、③大樹寺への位牌安置、④一周忌後の日光山への勧請、⑤「八州之鎮守」として祀る意思で構成され、自身の死後の処遇と神格化に関する具体的な指示でした。遺体はその日のうちに久能山へ運ばれ、埋葬されたといいます。

そして、元和3年(1617)4月17日には一周忌が行われ、「東照社」が創建され、朝廷から「東照大権現」の神号と正一位を授与され、家康の神格化が正式に認められました。

さらに、正保2年(1645)には朝廷から宮号が宣下され、「東照社」は「東照宮」に改称されました。

このように、東照社や東照宮は、家康の神格化、幕府の積極的な勧請により、江戸時代には全国に700社以上が建立されたといわれていますが、現存は明治維新後の神仏分離などの影響で約130社とされています。そのうち、日光東照宮(栃木県日光市)、久能山東照宮(静岡県静岡市)、滝山東照宮(愛知県岡崎市)は「日本三大東照宮」と呼ばれています。

東京では、芝東照宮(港区芝公園)、上野東照宮(台東区上野公園)が有名です。ちなみに、中央区に東照宮の存在は確認できませんでしたが、佃にある住吉神社(中央区佃一丁目1番14号)は、住吉三神(主祭神)とともに、家康を「東照御親命(あずまてるみおやのみこと)」として相殿に祀る神社として知られています。

なお、芝東照宮にある「東照宮復興祈念碑」には「本営は 日光 上野 久能山東照宮とともに わが国四大東照宮として崇敬者の尊敬をあつめている由緒ある名宮であります」との説明があります。やはり、「三大~」「四大~」といった分類には、いくつかの異なる説があるようです。

小田原に「東照宮」があった!

小田原に「東照宮」があった! 小田原ゆかり探しの旅(前編)

 

さて、本日訪れた東照宮はこちら(上の写真)で、正式名称を「今井権現神社」(小田原市寿町4-14-15)といいます。小田原駅から北東方向へ徒歩約30分の場所にありました。

『新編相模国風土記稿』(江戸後期編纂)によれば、天正18年(1590)の小田原合戦の際、当地は柳川和泉守泰久の宅地であり、そこに徳川家康が陣を敷いたとされています。これを契機として、元和3年(1617)、泰久の子である忠兵衛が東照宮を創建したのが始まりです。

この由緒は第2代将軍・徳川秀忠(天正7年(1579)〜寛永9年(1632))に伝わり、秀忠はこれを奇特なことと評価し、小田原藩に命じて社殿を造営させ、さらに20石余の領地を与えたと伝えられています。

そして、明治維新後の神社制度整備に伴い、この地域がかつて「今井村」と呼ばれていたことに由来して、「今井権現神社」と称されるようになりました。しかし、地元の方々の間では、創建当初の由緒に基づき、「東照宮」としての認識もいまなお根強く残っています。

境内には「徳川家康陣地跡の碑」があり、その前に設置されている案内板には、次のような説明がありました。

>この記念碑は、天正18年(1590)の小田原戦役の際、徳川家康が陣を張った跡に建設されたものです。

 碑文は、小田原城主大久保忠真の作で、藩士岡田左太夫光雄に書かせ、天保7年(1836)9月17日建立しました。

 徳川家康は、この戦役に豊臣方の先鋒として、約3万人の兵を率いて出陣し、兵を三方に分けて箱根を越えました。

 三島から宮城野を経て、明星岳を越え久野諏訪原に出た軍と、鷹ノ巣城(箱根町)を陥れて湯坂を越えた軍、そして足柄城(南足柄市)、新荘城(山北町)を陥れ、足柄越えした別の軍とが合流し、小田原城の東方のこの地に布陣しました。

 陣所は、当時今并(現寿町)に住んでいた柳川和泉守泰久の宅地で、ここを本陣とし、北条氏が降服して開城するまで、およそ110日間滞留していたといわれます。(後略)

この碑は、小田原藩・第7代藩主・大久保忠真(おおくぼ ただざね)(安永7年(1778)~天保8年(1837))が、天保7年(1836)に建立したとされています。 忠真は、文政元年(1818)に江戸幕府の老中に就任し、天保6年(1835)には老中首座に昇進しました。しかし、翌年の天保7年(1836)に体調を崩し、翌天保8年(1837)に逝去しています。 こうした経緯から、忠真は晩年、家康公の遺徳を讃える思いを込めて、この碑を建立したのではないかと想像されます。

正直なところ、これまで小田原と徳川家康の関係について深く考える機会はありませんでした。しかし、今回、小田原を訪れたことで、小田原合戦を契機に家康がこの地に残した影響が、決して小さくないものであることを改めて実感しました。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)
境内にある「徳川家康陣地跡の碑」。昭和36年に小田原市の文化財(建造物)に指定されています。
この碑に使われている石材は、根府川石と呼ばれる安山岩の一種です。石材の調達から加工・設置に至るまでの工程には、前述の石工棟梁「善左衛門」の子孫が関与していた可能性もあり、そうした背景を想起させる由緒ある石碑です。
 
 
 小田原ゆかり探しの旅(前編)

小田原合戦における豊臣方の布陣。左から、青色の〇が豊臣秀吉の本陣(石垣山一夜城)、赤色の〇が北条氏直(小田原城)、水色の〇が徳川家康の陣(先陣)です(小田原城内に設置されている「小田原城と小田原合戦攻防図」に加筆)。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)

豊臣秀吉は天正18年(1590)4月に箱根湯本の早雲寺に本陣を置き、同年6月下旬には石垣山一夜城を完成させ、本陣を早雲寺から移しました(「小田原市全域案内図」(小田原駅東口バス乗り場に設置)の小田原城周辺部分(拡大図)に加筆)

中央区の「小田原」~その由来と名残~

中央区の「小田原」~その由来と名残~ 小田原ゆかり探しの旅(前編)

 

中央区にはかつて小田原町」という地名が存在しました。そのルーツは、小田原の石工棟梁「善左衛門」にさかのぼります。

善左衛門は、天正18年(1590)に起きた小田原合戦で、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされた後、徳川家康にその技量を見出され、家康に仕えるようになりました。

そして、慶長年間(1596~1615)頃、江戸城修築のために、小田原や伊豆方面から切り出した石材を江戸まで運搬しました。その荷揚げ場所(石置場)は、日本橋川北岸(日本橋から江戸橋の間)にあり、屋敷もその付近にあったことから、その場所が「小田原町」と呼ばれるようになったといわれています。

その後、慶長15年(1610)頃に誕生したといわれている日本橋魚河岸の拡張や、明暦の大火(明暦3年(1657))を契機とする都市機能の再編により、石工職人たちは、寛文年間(1661~1673)頃、現在の築地付近へと移り住み、移転先は「南小田原町」と呼ばれるようになりました(現在の築地六・七丁目付近に相当します)。

一方、それまで「小田原町」と呼ばれていた元の地域は、混同を避けるために「本小田原町」へと改称されました(現在の日本橋室町一丁目から本町一丁目付近)。

なお、「南小田原町」の由来には諸説あり、小田原の魚商が幕府に願い出て、この地を開いたという説もあります。

現在、「小田原」という地名の名残は、「築地警察署 小田原町交番」や「築地魚河岸 小田原橋棟」といった施設名にわずかに見られる程度ですが、かつては小田原から多くの石工職人が移り住み、現在とはまったく異なる町並みを形成していたと考えられます。

 

*上の写真は、昭和25年(1950)の中央区小田原町の地図(中央区立郷土資料館 常設展示室内の地図より)です。このエリアは、元々、「南小田原町」という町名でしたが、昭和7年(1932)の町名整理によって、「小田原町一丁目~三丁目」に再編されました。そして、その後、昭和41年(1966)の住居表示の実施によって、「築地六・七丁目」に編入され、「小田原町」という町名は消滅しました。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)

本小田原町が描かれている文久元年(1861)の『御府内沿革図書(ごふないえんかくずしょ)』(『中央区沿革図集[日本橋篇]』(平成7年3月、中央区立京橋図書館発行)より)。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)

南小田原町が描かれている文久二年(1862)の『御府内沿革図書(ごふないえんかくずしょ)』(『中央区沿革図集[京橋篇]』(平成8年3月、中央区立京橋図書館発行)より)。

※ 上記地図はいずれも中央区立京橋図書館の許諾を得て掲載し、赤丸を加筆しています。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)

左)晴海通りの北側にある「築地警察署 小田原町交番」(中央区築地六丁目1番11号)。

右)晴海通りの南側にある「築地魚河岸 小田原橋棟」(中央区築地六丁目26番1号)。

 

 小田原ゆかり探しの旅(前編)

南小田原町のあった築地六・七丁目付近の現在の地図(「中央区エリアマップ」に加筆)。東西に走る晴海通りを挟んで北側に「築地警察署 小田原町交番」、南側に「築地魚河岸 小田原橋棟」が位置しています。

 

【主な参考文献・Webサイトなど】

・おだわらデジタルミュージアム(小田原市郷土文化館)ホームページ(小田原の歴史と民族)

・戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切と生産遺跡(2019年2月、佐々木健策著、新泉社発行)

Wikipedia「東照宮」

・中央区ホームページ(町名由来 > 京橋地域 > 築地地区