月島のわたし
ひらがなで書くと、「月島の私」と脳内変換しがちだが、正しくは「月島の渡し」である。
突然何を言っているんだこいつは!ですな。
そしてトップ画像は1966年の航空写真。
左下に築地市場、右上から左下に流れる川は隅田川。
そして右側にあるのが、月島と佃。佃大橋はまだなく、月島と佃が地続きになる前ですね。
右上部分、築地エリアをぐるっと囲っている築地川もくっきりと写ってます。
ここから前談を
中央区観光検定の受験勉強で、「中央区ものしり百科」のコースを周り、観光スポットを訪問した際、再開発でその場所に入れないことがよくありました。
実際「ものしり百科」にも、"再開発工事のため一時撤去or見学不可の場合がある"などの注記が記載されてます。
現在も日本橋コレド裏にある名水白木屋の井戸とか、呉服橋近くの竹下夢二の港屋絵草紙店跡地など、教育委員会が設置した説明板がない場所があります。(私の訪問時なので今違ったらご容赦のほど)
アーティゾン美術館近くにある歌川広重住居跡は、検定の勉強時には同様に何もなかったが、最近の戸田建設のビルが完成し、説明板が復活しました。
ただ大きなビルのスケールになると、住居跡なんて案内があっても、当時の様子を想像するにはハードルが高くなります。「ここに広重が住んでたんだー」、なんて感慨深くなるなんて事もなく、ただの情報としての目印に成り下がります。(個人の感想です)
「月島の渡し」跡(明石町側)
ということで、前談はここまで
今回は、私が検定勉強中の訪問時に、前談のよう説明板がなかったスポット「月島の渡し」をネタにします。
昨年2024年4月頃、令和5年版のものしり百科を見て月島にある「月島の渡し」の跡に行ったら、説明板がある「わたし児童遊園」が工事中。
ひらがなで「わたし児童遊園」って書かれているのを見ると、隅田川を渡船する船があった事を知らない方は「私児童遊園」?と一人称を呼称する意味に誤認されるんじゃね、と、その時思いました。(どうでもいい感想)
※冒頭の脳内変換の伏線に繋がる。
近くにある「勝鬨の渡し」や「佃の渡し」は、案内だけでなく記念碑的なものが残っているが、月島の渡しは、何も残っていなく、ぱっとしないスポットだなとも思いました。
ものしり百科には月島側のスポットのみ紹介されてますが、明石町側の電信創業之地碑の近くに、教育委員会の説明板があります。本章の写真です。
築地治作と東京都下水道局明石町ポンプ場の間あたり。ただ、隅田川の護岸から離れているので、実感がないな、と思ってました。
現代の地図
こちらの地図とトップの航空写真中央部にある『➕』印の場所に先ほどの案内板があります。
地図上、➕印と隅田川の間にある建物がポンプ場。
トップ画像を見ると、ポンプ場のあたりが入り江になっており、シーボルト像があるあかつき公園を経由し、築地川へのアクセスポイントであったことが確認できます。
つまり、先ほど"実感がないと思ってました"、と過去形で書いたのは、今は埋められて地面になっているが、航空写真を見た事で、本当にこの場所が渡船場だったんだ、という事を理解したからです。
「わたし児童遊園」から「中央区立わたし公園」へ
今回月島の渡しをテーマにしたのは、中央区パトロールの際に西河岸通りを通り、「わたし児童遊園」が建物の屋上に移り、「中央区立わたし公園」として再オープンしてきたのを発見したから。
伴って教育委員会の説明板も復活してました。公園にはカフェも併設されてます。
公園の案内図
復活した説明板
「令和七年三月」の記載があるので4ヶ月前頃に設置されていたのでしょう
隅田川側からみた、わたし公園
公園の柵が鉄パイプの簡易的なもので、中途半端な感じがします。堤防と建物の間が無駄に空いており、別途何か建てるのかもしれません。
近くには月島川水門が構える
出典:国土地理院ウェブサイト
中央区立わたし公園
東京都中央区月島3丁目24付近
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