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小田原ゆかり探しの旅(後編)

 

残暑お見舞い申し上げます。暦の上では立秋を迎え、各地でお盆の季節を迎えていますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、今回のブログは、前回に続いて「小田原ゆかり探しの旅」の「後編」となります。往時の面影を求め、中央区との繋がりをさらに追ってみたいと思います。

今回は、前回ご紹介した、石工棟梁「善左衛門(ぜんざえもん)」さんの子孫が営まれている石材店を再び訪ね、さらに、かつて中央区にあった「小田原橋」の親柱が展示されているという小田原市郷土文化館へ足を運びました。

 

<ブログの構成>

> 前編(6/20訪問)

・ プロローグ
・ 東照宮とは ~神格化された徳川家康~
・ 小田原に「東照宮」があった!
・ 中央区の「小田原」~その由来と名残~

> 後編(7/12訪問)

・ 敷地内東照宮 ~私邸に宿る静かな恩義~
・ 中央区から譲り受けた「小田原橋」の親柱
・ エピローグ

 

*トップ画像は、小田原のシンボル「小田原城」。戦国時代に北条氏の居城となり、関東支配の中心拠点となりました。現在の天守閣は昭和35年(1960)に復元されたもので、白壁と黒瓦が織りなす美しいコントラストが四季折々の風景と調和し、訪れる人々を魅了します。

 

敷地内東照宮 ~私邸に宿る静かな恩義~

石工棟梁「善左衛門」さんの子孫が営まれている石材店を再び訪ねました。

善左衛門さんは、戦国時代の大名・北条氏に仕え、小田原城の修築に携わった人物です。  

天正18年(1590)に起きた小田原合戦では、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされましたが、その後も彼の技量は高く評価されました。  

徳川家康に見出された善左衛門さんは、日本橋川北岸(日本橋から江戸橋の間)に石置場と屋敷を与えられ、江戸城の修築や台場の構築など、江戸の都市整備に深く関わったと伝えられています。  

なお、かつて日本橋川北岸に存在した「小田原町」の由来がこの石工棟梁の功績にあることは、前回ご紹介したとおりです。

 

今回、ご厚意により、私邸の敷地内にある東照宮を特別に拝観させていただけることになりました。

私邸へとご案内いただき、しばらく敷地内を歩いていると、歴史の重みを感じさせる一基の鳥居が姿を現しました。「これが家康公への恩義のしるし、東照宮なのだ」と心の中で思い、一礼して鳥居をくぐると、時の流れが緩やかに巻き戻るような感覚を覚えました。

さらに奥へ進むと、社殿が静かに鎮座しており、その扉に視線を向けると、「三つ葉葵」の御紋が目に入ってきました。まさに「東照宮」であることを実感し、深い感動が胸に広がりました。

今、私は、石を切り出して城を築き、街を支え、人々の記憶にその名を刻んだ善左衛門さんの存在と向き合っているのです。その足跡は、石垣の隙間に静かに残され、まるで歴史の語り部のように、今も私たちに静かに語りかけているように感じました。

 

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

鳥居の向こうには、狛犬の姿はなく、大きな鏡餅が左右に鎮座していました。餅は古くから戦勝祈願の縁起物とされ、家康も好んで食したと伝えられています。そういった背景から、この鏡餅は、善左衛門さんが機転を利かせて祀ったものだったのではないか、そんな想像も自然と浮かんできます(後日、この鏡餅は明治以降に製作されたものとおうかがいしました)。

 

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

社殿の扉に刻まれた「三つ葉葵」の御紋。その前に立った瞬間を思い出すと、あの場に満ちていた張りつめた空気がよみがえり、思わず背筋が伸びます。なお、写真に写っている砲弾は、善左衛門さんが台場の構築に携わった際に入手されたものだそうです。

 

* 本東照宮は一般公開されておりません。また、写真はすべて事前に許可をいただき、掲載しております。

中央区から譲り受けた「小田原橋」の親柱

中央区から譲り受けた「小田原橋」の親柱 小田原ゆかり探しの旅(後編)

 

かつて築地川の南支川と東支川が交差する地点(中央区築地六丁目14番地・26番地)に架かっていた「小田原橋」の親柱が、小田原市郷土文化館(小田原市城内7-8)(上の写真)に移設・保存されていることを、前回の小田原訪問後に知りました。そこで、今回、同館を訪ねてみることにしました。

その移設・保存の経緯は、小田原市ホームページによると、小田原橋は、築地川の埋め立てによりその機能を失い、平成25年(2013)に撤去されたのですが、現存していた親柱3本のうち1本を小田原市が中央区から譲り受け、小田原と江戸をつなぐ貴重な歴史遺産として、同館の前庭で保存・公開されることになったということです(ちなみに残りの親柱については、中央区立京橋図書館(地域資料室)に調査を依頼しましたが、行方は不明とのことでした)。

小田原橋という橋名は、橋の東詰一帯が、江戸時代から昭和7年(1932)まで「南小田原町」、同41年(1966)まで「小田原町」と呼ばれていたことが由来となっています。

 

【小田原橋 諸元】

<形式>  RC(鉄筋コンクリート)充腹式上路アーチ橋
<橋長>  24.5m
<幅員>  15.0m
<竣工>  昭和4年(1929)10月16日

 

同館の前庭に「小田原橋」の親柱が展示されており、その案内板には次のような説明がありました。

>小田原橋は、昭和4年(1929)、現在の東京都中央区築地に架設されたコンクリート製のアーチ橋です。 名称は、江戸時代から昭和41年まで、この一帯に「南小田原町」(その後「小田原町」)と呼ばれる町があったことから名づけられました。

 「小田原町」の成立は、小田原城下板橋の石工棟梁善左衛門が、ほど近い江戸湾の海浜に江戸築城用の石材の荷揚場を設けた慶長年間(1596~1615)頃までさかのぼります。善左衛門は、諸国の職人を指揮して小田原や伊豆方面から切出した石材を船で廻漕し、ここで荷揚げ加工しました。

 昭和41年、 当地は築地に編入されて町名が消滅、その名残をとどめる「小田原橋」も平成25年に撤去されたことから、小田原市では、かつて江戸の築城や街づくりに市域の先人が深くかかわっていたことを偲ぶよすがとして、橋の親柱1本を譲り受け、ここに移設したものです。

 

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

小田原市郷土文化館の屋外に展示されている「小田原橋」の親柱。この親柱が平成25年(2013)まで築地にあったことを思うと、小田原との不思議なご縁を一層感じさせられます。

 

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

上)門跡橋より小田原橋方向を望む(昭和60年(1985)年5月製作)。

下)地川東支川より小田原橋を望む(昭和63年(1988)年11月製作)。

※ 上記写真はいずれも中央区立京橋図書館からの提供を受けて掲載しています。

 

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

上)昭和25年(1950)の中央区小田原町の地図(中央区立郷土資料館 常設展示室内の地図に加筆)。小田原橋は北から(備前橋から門跡橋を経て)流れる築地川南支川の最下流部に架かり、南支川は西から(市場橋から海幸橋を経て隅田川へ)流れる東支川に合流していました。

下)現在の地図(「中央区エリアマップ」に加筆)。

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

左)かつて小田原橋が架かっていた場所(東西に走る波除通り(なみよけどおり)を東側から西側に向かって撮影)。赤色の〇に写っている車の下部が道路の起伏で見えなくなっていますが、これはちょうど写真に写っている(築地魚河岸 小田原橋棟と海幸橋棟を繋ぐ)陸橋の下あたりに小田原橋が東西に架かっていたことを物語っています。

右)築地魚河岸 小田原橋棟の波除通り側入口です。

エピローグ

エピローグ 小田原ゆかり探しの旅(後編)

 

「小田原ゆかり探しの旅」と題し、中央区とのかかわりを探るべく、2回にわたって小田原の地を訪れました。

かつて中央区に「小田原町」と呼ばれる地名が存在していたことから、両者の関連性を認識はしていましたが、今回、石材運搬という歴史的視点を通じて、その繋がりをより深く掘り下げることができたと思います。

さらに、その道筋の先に、徳川家康という偉大な存在があったことも改めて感じることになり、小田原をめぐる今回の旅は、地域の記憶と歴史に触れる奥深い学びのひとときとなりました。

最後に、今回、ご厚意により、東照宮を特別に拝見させていただく機会を得られましたことに深く感謝しつつ、ブログを締めくくりたいと思います。

 

【主な参考文献・Webサイトなど】

・おだわらデジタルミュージアム(小田原市郷土文化館)ホームページ(小田原の歴史と民族)

・戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切と生産遺跡(2019年2月、佐々木健策著、新泉社発行)

・ブラタモリ5 札幌・小樽・日光・熱海・小田原(2016年12月、NHK「ブラタモリ」制作班監修、KADOKAWA発行)

 

 小田原ゆかり探しの旅(後編)

小田原城址公園 南曲輪南堀のハス。後ろの建物は小田原市郷土文化館(2025年7月12日撮影)。