佃のルーツを探る旅
佃にやってきました〜
ってタワマンは?隅田川は?佃煮屋さんもない…とマヌケなボケをかましてしまいましたが、ここは大阪、西淀川区の佃。
大阪出張の帰り道、万博か!と思いましたが、暑さと人の群れに気持ちも折れ…やはり観光協会特派員としての使命?に燃えてやってきました。
東京と大阪の佃、偶然に同じ地名となったのではなく、とても縁深いところなんですね。
〜以下、wikipediaより引用〜
色々な説があるようですが、大阪で伝えられた話では、1586年、徳川家康が摂津国の多田の廟(現在の兵庫県川西市の多田神社)に参詣する際、大阪の田簑嶋(たみののしま)と呼ばれていた地の漁民が神崎川の渡船を務め、家康はほうびとして全国での漁業権と税の免除を認める一方、田も作るよう命じたことから、地名を田簑嶋から佃に改めた、と。
1766年に書き上げられた「佃島由緒書」(つくだじまゆいしょがき)の写しには、上述の縁で1590年の家康関東入国の際に、佃村の名主の森孫右衛門(もり まごえもん)が家康の供を命じられ、二代将軍秀忠の時代に、森孫右衛門と隣村の大和田村(現在の大阪西淀川区)の漁民33人が江戸にやってきた、と。
中央区の佃島は1602年、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし、1644年に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村、とあります。
佃漁民ゆかりの地の碑がある田蓑神社へ
正面に建つ鳥居は1511年に建てられたとの説明版。
ゴツゴツしていて手造り感がでていました。
境内には家康公を祀る東照宮もありますね。
7月31日から御祭禮があるようで社務所からは太鼓の音が聞こえてきました。
神社の周りの街並みは至って普通の閑静な住宅街。
大阪中心地や神戸などへ働く人達のベッドタウンでしょうか。
突き当たりが神社正面です。
当時の江戸はまさに未開の地、当時の中央区もほぼ野草(アシやヨシ)群がる湿地帯。
この地より江戸へ向かった漁師達の思いとは如何なものだったのか。
今の江戸佃を見たらさぞかし驚くでしょうね。
神社最寄り、阪神電車 千船(ちぶね)駅ホームより神社方面をのぞみます。
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