「佃島」に残る昔のあれこれ(後編)
さて後編の始まり~
前編を読んでいないお友達は先にこっちを読んでね
こちらTOPの写真は聖路加タワー46階のエレベータホールの窓から見える佃島
撮影の時間帯が悪かったのでビルの影がかかってしまってます。
お気づきになるかもしれませんが、周囲に比べて高い建物がありません。
月島は鬼畜な業者(個人の思い込みです)によって、ばんばん開発されますが、佃島は家康により結界が張られているのかもしれません、とテキトーな事をのたまう。
なぜ家康?関係あんの?
知りたい人は以下をどうぞ。
Wikipediaより転載
「家康が摂津国の神崎川を渡ろうとした際、佃の漁師(庄屋)だった森孫右衛門が舟を貸してくれたおかげで三河国の岡崎城に帰還でき、徳川家とこの漁民の間に強い絆が出来たという。
(中略)
江戸の佃島は慶長7年(1602年)、摂津国佃村と大和田村からの34人の入植を契機とし、正保元年(1644年)に隅田川河口・鉄砲洲の干潟100間四方の埋め立てによって出来た漁村である。佃村漁民の関東での漁労活動は、当時多く見られた近世の畿内漁民の関東進出の一角ともされる]
へー「佃」って地名は大阪が起源だったんだね(Eテレ風)
周辺徘徊して写真を撮った場所をプロット(後編)
さて、後編でまわったスポットは6箇所
前編より月島駅側に寄ります。
前編同様赤線が江戸時代オリジナルの「佃島」エリア。
⑧森稲荷神社
ものしり百科には掲載されていない小さな祠が。
箒と塵取りが置いてあり、小綺麗にお手入れされています。
⑨佃小橋
世界はひとつ、佃島はふたつでひとつ
少し遠目ですが左右二つの島を結ぶ赤い佃小橋
⑩佃浪除稲荷神社
玉垣には水産関連の屋号やら会社名がたくさん。
漁師たちは石を持ち上げて力競べする習慣があったとものしり百科に書いてます。
その力石もちらっと写ってて、写真ではわかりませんが、"さし石"と刻印されてます。(ここテストに出るところです)
メインの波除稲荷の祠の右には於咲稲荷
調べてみると流行り病たったコレラを鎮めるために作られたとか
現代、同じ流行り病のコロナを鎮めるために神社を作るなんて事しないので、まさに神頼みの時代ですな。
⑪佃天台地蔵尊
路地の中にある佃天台地蔵尊
こちらも、ものしり百科になぜか掲載されていません。
仏像ではなく地蔵が石に描かれており、珍しいと思うんだけど。
本尊をはっきり写真に収めるのは咎められるので、撮影は遠目で。
手前右手にはでっかいイチョウの木が生えてます。
路地から上を見上げた絵
上空に生い茂ってます。
遠くから見ても目立ちます。
この道路がオリジナルの佃島の護岸あたる場所だと思われますが、痕跡は皆無。
そして上空から撮影したトップ画像にもこちらのイチョウのが写っているのがおわかりだろうか。
ビルの影の先端から右斜45度方面に見れる緑のモフモフである。
⑫佃橋
月島と佃島が佃川で隔たられていた頃に両方を繋いでいた「佃橋」。
1964年の佃大橋の架橋とともに佃川が埋められ、橋も撤去。橋があった痕跡は全くない。
ったく何か残しておけばいいのに。プンプン。
こちら見てのとおり信号がないので、次に紹介する「新月橋」の信号に引っ掛かったときは、こちらに移動すると信号なく佃側と月島側を往来できます。
ま、きっとそこまでする人はいませんが。
左手前には佃島砲台跡の説明板。
1887年に始まった月島(築島)築造工事。佃島砲台を起点に月島第一号埋立地(現在の月島1~4丁目)が作られたと書いてます。たぶん
⑬新月橋
こちら佃島から少し離れてしまうが、西仲通り(もんじゃストリート)を佃側に進み、先ほどの佃橋同様、佃川にかけられていた「新月橋」の跡地。全く橋の形跡が残されてません。
道路の真ん中からのアングルですが車がいないタイミングで撮影してます。
ちなみに今回の徘徊ターゲット外ですが、月島の幹線道路である清澄通りにて佃川に架けられていた「初見橋」の名はは、月島駅前の交差点名として残されてます。
ただ橋の形跡は全く残っていないので、上に架けられている佃大橋から朝潮大橋に繋がる「新月陸橋」のことを「初見橋」と勘違いしてるは人は5万といそうだな。
佃仲通り
新月橋を渡ると、「西仲通り」は「佃仲通り」に名称変更
って事で今回ここまで。特にオチはありません。
徘徊して撮影した佃島に残る昔のあれこれでした。
読んでくれたお友達!ぜひ行ってみてね!
バイちゃ!
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