べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ 異聞 50
~ 松平定信・本居宣長 ~
リモートで、愛する中央区をナビゲートします、rosemary sea です。
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)~」第48話(最終話)、語りたいことは山ほどあります。
蔦重の脚気(かっけ)による死、逃げた一橋さま(生田斗真さん)の雷に打たれての死、元花魁・瀬川(小芝風花さん)の幸せなその後、とうしゅうさい(東洲斎写楽)=さいとうしゅう(斎藤十郎兵衛)、あの世からのお迎え係・九郎助稲荷(くろすけいなり:綾瀬はるかさん)の再登場・・・。
最終話に登場しましたのは、
シリーズ29蔦重、シリーズ25てい、シリーズ23喜多川歌麿、シリーズ③北尾重政、シリーズ13北尾政演(山東京伝)、シリーズ34北尾政美、シリーズ43勝川春朗(のちの葛飾北斎)、シリーズ28朋誠堂喜三二、シリーズ21大田南畝、シリーズ32唐来三和、シリーズ33朱楽菅江、シリーズ39宿屋飯盛、シリーズ42曲亭馬琴(滝沢琑吉)、シリーズ46十返舎一九(重田貞一)、シリーズ47チーム東洲斎写楽、シリーズ30元木網、シリーズ31智恵内子、本居宣長(今回50最終)、そしてシリーズ⑩平賀源内(回想)、シリーズ⑧鶴屋喜右衛門、そしてそして松平定信(今回50最終)、シリーズ⑥長谷川平蔵。
最終回にふさわしい、めいっぱいの登場となりました。
前回予告させていただきました通り、ラストは「松平定信(まつだいらさだのぶ)」で締めたいと思います。
白河松平家は八丁堀に上屋敷、築地に下屋敷を持っていましたので、定信さんももちろん「中央区族」です。
※ 文末に、今最終回登場の「本居宣長(もとおりのりなが)」を加えさせていただきました。
冒頭画像は浜町2-3-5、元德(げんとく)稲荷神社 綱教(つなしき)天満神社の右の狛狐、次の上の2枚目画像は同神社の左の狛狐です。
松平定信は・・・
上の画像は浜町3-30-6、大廣(おおひろ)神社の手前右の狛狐です。
宝暦8年(1759年)ー 文政12年(1829年)
徳川将軍家の一門・御三卿(ごさんきょう)の田安家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。いわゆる「8代将軍・徳川吉宗の孫」。もしも田沼意次の策略がなかったら、11代将軍となっていたと云われています。
兄・田安治察(はるあき)が田安の家督を継ぎまして、定信は白川藩主・松平定邦の養子となりました。
ところが治察が亡くなり、田安家の相続に値するものがいなくなり、定信の田安家復帰がはかられましたが、定信の才能を恐れた田沼意次がそれを阻止した、と云われています。
その後26歳で白川藩主となりましたが、30で幕府老中に抜擢され、ただちに首座(老中の最上位)となり、大奥の掛(かかり)も兼務、そして翌月には寛政の改革の断行を宣言しました。
幕府の全権を掌握し、幕政改革に邁進しました。
ただ老中在職は志半ばの約6年、寛政5年(1793年)には将軍補佐と老中職を解任され、幕政の表舞台から退きました。
その後は白川藩政に専念しました。
参考文献: 「松平定信」 藤川覚 著、中公新書 刊
「日本人の自伝 別巻1」 宇下の人言(うげのひとこと) 松平定信 著、平凡社 刊
※ 定信さんが書きました自伝「宇下の人言」は、宇下=定、人言=信を分解したものとされています。
「べらぼう・・・」での松平定信は・・・
上の画像は同じく大廣神社の手前左の狛狐です。
井上祐貴さんが演じています。なお、幼少期(田安賢丸【たやすまさまる】)からは寺田心さんが演じていました。
松平定信
~ 田沼意次失脚後、“寛政の改革”を行う老中首座 ~
財政難と風紀の乱れに直面する幕府の再建を託され、十一代将軍・徳川家斉(城桧吏さん)の下で老中首座に就任。
田沼意次(渡辺謙さん)の華やかな商業重視政策とは対照的に、倹約の徹底、農村復興、風紀の粛清、朱子学の奨励など「寛政の改革」を断行。
町人文化にも厳しく、洒落本や黄表紙の出版統制を強化。
蔦重(横浜流星さん)の出版活動にも大きな影響を及ぼす。
ー NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ホームページ より ー
浴恩園跡(よくおんえんあと)
(以前の「歩いてわかる 中央区ものしり百科」には、このように書かれていました。)
ー 老中松平定信が作庭した名園 ー
東京都中央区卸売市場築地市場(現在は豊洲に市場移転済、併せて跡地は整備中)内には、かつて風光明媚な名園として知られた浴恩園があった。
浴恩園は、寛政4年(1792年)にこの地を拝領した老中の松平定信が工夫をこらして名園に仕立て上げたもので、園内には春風池・秋風池、池を囲む築山などがあった。
市場内にある魚河岸水神社の石垣部分には当時の面影を刻んだ銅板画がある。
都指定文化財。
(築地5-2-1)
※ 浴恩園は、松平定信が一橋家から譲り受けた約2万坪の屋敷地を整備した潮入りの庭園。
天下の名園として知られていた、と云われています。
また、定信さんはここで数々の文化活動を行ったそうです。
しかし1829年の大火で焼失、明治には海軍兵学校や海軍病院などが建てられましたが、関東大震災で被災しました。
跡地となったところに日本橋から移転してきました魚市場も、2018年には豊洲に移転しました。
ただ、春風池・秋風池は今も地下に埋蔵されている、と云われています。
海軍発祥の地
ー 浴恩園の跡地に設置された海軍省の記念碑 ー
明治5年(1872年)、政府は築地に海軍省を設置した。
もとは寛政4年(1792年9にこの地を拝領した老中松平定信の下屋敷「浴恩園」があった場所で、園内の築山に「海軍卿旗(かいぐんきょうき)」が掲揚されたため、人々はこの山を旗山(きざん:はたやま)と呼んだという。
かつて旧築地市場内には、海軍発祥の地を記念した石碑があり、その前面には「旗山」と刻まれている。
(築地5-2-1)
※ 現在、市場跡地整備のため見学不可。
~ 歩いてわかる 中央区ものしり百科 より ~
狛狐画像、大放出します ー後編ー
前回のシリーズNO.49に引き続き、余りました狛狐の画像を大放出させていただきます。
なお、福田稲荷神社の左右2体の狛狐も、ご紹介できませんでした。申し訳ございません。
・・・それではどうぞご覧ください。
上の2枚の画像は同じく大廣神社の奥の狛狐です。
上が右、下が左の狛狐です。
左の狛狐、残念ですが右の耳部分が欠けています。
上の4枚の画像は日本橋箱崎町10-7、高尾稲荷神社の4体の狛狐です。
上から順に、奥右・奥左・手前右・手前左の狛狐となっております。
手前右の狛狐の後方に、奥右の狛狐が少し写り込んでいます。
50回分のおさらい・・・
第1回 浮世小路 百川(※)
第2回 鱗形屋孫兵衛
第3回 北尾重政
第4回 礒田湖龍斎
第5回 須原屋市兵衛
第6回 長谷川平蔵宣以
第7回 西村屋与八
第8回 鶴屋喜右衛門
第9回 身請け(※)
第10回 平賀源内
第11回 富本豊志太夫(午之助)
第12回 勝川春草
第13回 北尾政演(山東京伝)
第14回 市川門之助
第15回 平秩東作
第16回 杉田玄白
第17回 元吉原(※)
第18回 田沼意次
第19回 鳥山石燕
第20回 恋川春町(倉橋格)
第21回 太田南畝(四方赤良)
第22回 土山宗次郎
第23回 喜多川歌麿
第24回 松前廣年
第25回 てい
第26回 田沼意知
第27回 つよ
第28回 朋誠堂喜三二(平沢常富)
第29回 蔦屋重三郎
第30回 元木網
第31回 智恵内子
第32回 唐来三和
第33回 朱楽菅江
第34回 北尾政美
第35回 志水燕十
第36回 富本斎宮太夫
第37回 白木屋彦太郎
第38回 鸚鵡返文武二道(※)
第39回 宿屋飯盛
第40回 芝全交
第41回 鵜亭焉馬
第42回 曲亭馬琴(滝沢琑吉)
第43回 葛飾北斎(勝川春朗)
第44回 万次郎・高島おひさ
第45回 中洲(※)
第46回 十返舎一九(重田貞一)
第47回 東洲斎写楽
第48回 人足寄場(※)
第49回 中山富三郎
第50回 松平定信・・・(おまけ)本居宣長
※印のついた回は、人物紹介以外です。
本当の事を申しますと、あと3人をご紹介申し上げるつもりでした。
◎ 式亭三馬
40話で「北尾政演(山東京伝)ファンの太輔」として登場、一時本石町(現在の日本橋本石町)の地本問屋に住み込んでいたそうです。
荒井雄斗さんが演じています。40話では政演(京伝)さんにサインをもらって喜んでいました。
◎ 山﨑屋金兵衛
蔦重の「青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)の相版元。10話登場。
書物問屋仲間の出版手続を得るための相版元であって、「青楼美人合姿鏡」の製作や、恐らく出資にも絡んでいないものと思われます。
◎ 勝川春好
長谷川町(現在の日本橋堀留町2丁目)に住んでいました。
勝川春草門下の初期の弟子で、勝川春朗(のちの葛飾北斎)の兄弟子にあたります。
春朗が描いた看板絵を「未熟、師匠の名に恥じる」として破り捨てたそうです。
「初代中村仲蔵の石川五右衛門」は春好の代表作。
「役者大首絵」と称される作品で、師匠の春草とともに大首絵を描いて人気を博しました。
※中村仲蔵は春好の師匠・勝川春草も描いています。
このシリーズ⑫~勝川春草~ をご覧ください。
勝川春好に至っては、「べらぼう・・・」では描かれませんでした。つまりノータッチ。
準備していましたが、読みがはずれてしまいました。
まあ、こういうこともございます。
本居宣長
最終回ですからもう一人、書いておきましょう。
最終回に初めて登場しました「本居宣長」、国学者です。
若い頃、大伝馬町の叔父のお店に居候していたことがあるそうです。
それと、中央区に関係の深い賀茂真淵の門人となったことも知られています。
「べらぼう・・・」では北村一輝(きたむらいっき)さんが演じました。
本居宣長
和学者。
宣長の著述を江戸で売り広めようと、伊勢・松阪まで蔦重が訪ねてくるが・・・。
史実では、現存する日本最古の歴史書「古事記」を研究し、「古事記伝」を執筆。
また医者としての一面ももっていた。
ー NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」ホームページ より ー
賀茂真淵縣居の跡(かものまぶちあがたいのあと)
もうひとつ、ご紹介させてください。最終回ですから何でもありの盛りだくさんです。
本居宣長が入門した賀茂真淵、その縣居の跡につきまして述べます。
ー 日本人の精神を研究した国学者の住居跡 ー
賀茂真淵(1697~1769)は、浜松の神職の子として生まれた。
京都に出て国学者・歌人の荷田春満(かだのあずまろ)に入門。
師の没後は江戸に出て、万葉集を中心とする古典研究を通じて日本人の精神を研究した。
宝暦10年(1760年)にはこの地付近に転居して多くの門人に国学を指導した。
門人からは本居宣長や楫取魚彦(かとりなひこ)・加藤千蔭(かとうちかげ)・村田春海(むらたはるみ)などの著名な国学者を数多く輩出した。
主な著書に「万葉考」「歌意考(うたいこう)」「国意考(こくいこう)」「祝詞考(のりとこう)」などがある。
浜町バス停横には説明板がある。
東京都指定文化財。
(日本橋浜町1-2-1)
~ 歩いてわかる中央区ものしり百科 より ~
※ 2019年6月1日『中央区歴史逍遥<3> 賀茂真淵没後250年① ~浜町の「県居」はどこ、どんなところ』・・・写楽さいさん執筆
2019年7月5日『中央区歴史逍遥<5> 賀茂真淵没後250年③ ~真淵が住んだ八丁堀組屋敷地と門人たち~』・・・同じく写楽さいさん執筆
2024年6月17日『賀茂真淵の縣居(あがたい)』・・・ぴっかさん執筆
こちらもご覧ください。
このシリーズの終わりに際しまして・・・
NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」、ロズマリの生活の一部として、すっかり馴染んでしまいました。
しかし、ついにこの日が巡ってきました、12月14日の最終48回放送。
放送なしの週の2回を含めて50回に及びました「べらぼう・・・」シリーズ、お読みいただき本当にありがとうございました。
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