壱路

現在でも生きる秤の歴史

観光協会特派員としてこのような形で情報発信させてもらっていますが、特派員になるには観光協会で年に一回行われる検定試験にパスする必要があります。

そんな検定試験問題に、秤座について過去に何度か出題がありました。

中央区観光検定

検定試験を通して秤、なんだか気になっていたのです。

 

天秤やら⚖️やら色々イメージできますね。

何か分け合うにも、料理をする時にもハカリって身近に使うかと思います。例えば子供達がお菓子を分ける時、やはり平等でないと喧嘩になってしまう、分量間違えて料理の味が〜、なんてことも。

 

そんな秤の歴史が中央区にあったのです。

 

 現在でも生きる秤の歴史

日本橋三丁目交差点を中央通りから日本橋方面へ、中央通りから少し入ったところ、八重洲北口通り、ビルの谷間にその碑はあります。

秤は紀元前1万年前にはすでに存在していたとか。

てこの原理を利用した天秤とのことで、エジプトでは紀元前5000年ごろとみられる天秤が発見されました、という記事をネットでみることができます。

…とりあえず中央区を起点にみていきましょう。

 

中央区を知る

「中央区HP 中央区を知る。広報紙コラム「区内の文化財」より一部掲載

 

要約すると以下の通り。

江戸秤座

守随氏(甲斐武田家のもとで秤の製作販売を業としていた)

天正18年(1590年)

徳川家康の関東入国の際に江戸へ移住し、家康の許可を得て幕府公認の権衡(はかりのおもり「権」とさお「衡」の意味)専業の任にあたる。

 

慶長19年(1614年)

三代彦右衛門の代に関東中の秤の特権を得、承応2年には東国33か国を守随家(江戸秤座)、西国33か国および壱岐・対馬を神家(京都秤座)の特権域とする東西分掌体制となる。


江戸秤座の場所は、箔屋町(現在の日本橋三丁目)から具足町(現在の京橋三丁目)へと移転し、再び箔屋町(当該史跡)の地へ移る。

明治8年(1875)の度量衡取締条例によって、秤製作請負人を各県に一人ずつ認可する制度となり、特権的な秤座の歴史に幕を閉じた。

 

東の守随家、西の神家、対立するものの仲良く平等に分け合って落ち着く、なんてやはり秤屋さんなんですね〜。

東の守随家、今でも存在しています。

 

株式会社 守随本店

御本社のHPを見ると様々なところで秤が入り込んでいるのがわかりますね!

人間社会の円滑剤、そんな感じがしました。

御本社は愛知県は名古屋市、これも東西への配慮を量った?からでしょうか…