国立銀行設立の日とよもやま話のおまけ
前回のブログで、国立銀行設立の日を偶然に知り、第一国立銀行(現みずほ銀行)に関連して多少なりとも中央区に縁がある小椋佳と沢木耕太郎をよもやま話として取上げました。
https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=7103
以前、新潮現代文学17・山本周五郎の解説を引き受けた沢木耕太郎は周五郎の没後50年が過ぎ、出版界が競って周五郎の特集を組み始めた時に文春から山本周五郎名品館という彼の莫大な短編小説の中から傑作を抜粋した短編集作成の依頼を受けます。
私用で鎌倉に行った沢木耕太郎は、山本周五郎の墓が鎌倉霊園にあるのを思い出し、墓参りに行きます。短編集を作成したことと著作権が切れた後だったことのお詫びをしたそうです。(ちなみに法改正が2018年にあり現在は著作権は没後70年です)
すっとこどっこいの身内も鎌倉霊園に眠っています。墓参りのついでにお参りしてきました。
山本周五郎の墓誌です。
本名は清水三十六(しみず さとむ)。明治36年の産れです。
山梨県に生まれますが大水害によって祖父母を喪うなどの被害をうけ、北区の豊島に引っ越します。が、荒川の氾濫でまたも被害を受け、横浜へ移ります。横浜の小学校時代に作文の授業で友達と遊んだことを書きました。廊下に張り出されますがその友達は一緒に遊んだことなどないと言い回り嘘つきと問題になります。その時先生は怒らずに「想像でこれだけの作文を書けるのだから君は将来作家になりなさい」と言ったそうです。それを励みに学級新聞の責任者をしたり友達の作文や図画を集め雑誌にし表紙に詩を書いたりします。作家を志望する気持ちを持ったようです。
写真は京橋公園内にある木挽町の由来の説明版です。この場所は旧木挽町二丁目です。
尋常小学校卒業した清水三十六は木挽町にある”きね屋”という質屋に丁稚として住み込み奉公し始めます。
質屋は当時、一六銀行という通り名で呼ばれています。無理やり銀行との関連付けですが。
きね屋の場所を調べてみたところ、木挽町二丁目と書かれているのを何件か見ましたが場所が特定出来ませんでした。中央区沿革図集の大正元年の京橋區地籍地図にも明記されたものは無いし、昭和7~11年の火保図は関東大震災の後なので参考になりませんでした。
木挽町二丁目なら現在の銀座二丁目ですから小椋佳が中央区の還暦のつどいでコンサートを行った銀座ブロッサムの場所の住所です。こじつけて書けるかなと思っていました。
本の森ちゅうおうにあった銀六・七東町会記念誌の ”木挽町界隈” には、きね屋は木挽町六丁目にあったと書かれていました。そして山本周五郎の本 ”柳橋物語・むかしも今も” の作中に「木挽町六丁目という処は南側が武家屋敷に対し・・・表通りには紀六(指物屋)をはじめ杵屋という質屋、酒屋、糸綿屋・・・」という文章がありました。
三十間堀川(今の三原通り)と花椿通りの出雲橋の交差するところが木挽町六丁目です。熊谷神社が木挽町六丁目東となっています。上記写真は旧木挽町六丁目で現在の銀座七丁目です。
きね屋の主人の名前は山本周五郎でした。学者肌で自らもペンネームを持って小説を書く人でした。奉公人の三十六を可愛がり、質屋の仕事は他の仕事より時間に余裕があるから勉強しなさいと英語学校や簿記学校に通わせました。
関東大震災で被災し、きね屋質店は解散します。執筆活動を始めていた三十六は沢山のペンネームを使い分けますが、時代小説は一貫して尊敬する恩人である質屋のご主人の名、山本周五郎を使いました。
ちなみに木挽町という町名はもう使われていませんが、道路の愛称であったり医院の名称、公衆便所の名前などで見かけます。歌舞伎座地下のスペースの名称は木挽町広場です。とても歌舞伎座の雰囲気にぴったりの名前と思います。
すっとこどっこいの実家は材木に関係した家だったこともあり、この町名が好きでした。でも銀座と木挽町の二択で選ばれるのはやはり銀座でしょうねぇ。
沢木耕太郎は山本周五郎名品館で小説を選ぶにあたり、缶詰状態で莫大な小説を読みます。そして ”寒橋” という40ページの短編小説に出会います。「かんばし?かんきょう?さむばし?」当初はタイトルの読み方も分からなかったそうです。読み進むうちに”さむさばし”であり、小田原町にあることを知ります。小田原町は沢木耕太郎の父親が産まれて10歳まで過ごした地であり、祖父が山の手に引っ越した後も小田原町が好きで、本籍地としていたため、沢木耕太郎の本籍地も小田原町になっていたそうです。短編集作成後に歩いてみたそうです。ぶらぶらして日が暮れた頃父の作った句「寒柝に幼児の恐れ憶ひけり」を思い出します。寒柝(かんたく)は火の用心の拍子木の音です。子供のころの父はその音が怖かったという句です。 ”寒橋” の最後の一行は「ずっと遠くで、火の番の柝の音が冴えて聞こえた」です。偶然に思いを馳せます。
明石橋は ”寒橋” の正式な名です。北川千秋著の ”築地明石町今昔” によると1680年架橋と言われます。明治期、麓に運上所ができ、関所の役目もしています。さむさばしの名の由来ですが、言い伝え話によるとこの辺りの若衆が隅田川向こうの深川へ遊びに行った帰りに明石橋に着いたとき、秋風が首筋に入り込み思わず「おお寒っ」といったから寒橋だそうです。妖怪話も残っており悲劇の娘のために祠があったそうです。すっとこどっこいは小学生の時まだ明石堀に水がありこの地に橋がありました。大雪の降った日、小田原町の空き地で雪合戦をした帰り、寒く暗い夕方に一人で歩いていたら何か怖くて遠回りして帰った記憶があります。
現在の明石町ポンプ場の辺り、月島の渡し跡の説明版がある所です。写真はあかつき公園内にある明石町名由来の石碑の裏側にある橋名板です。
築地の老舗料亭 新喜楽 です。芥川賞、直木賞の選考会の会場になっています。
山本周五郎は1943年に ”日本婦道記” で直木賞に推薦されました。が、「もっと新しい人や作品にあたえられるべき」云々とか他の理由だったのかわかりませんが受賞を辞退します。後にも ”樅ノ木は残った” の毎日出版文化賞、 ”青べか物語” の文春読者賞も辞退しました。園遊会の招待も断りました。「小説家は読者のために書く以外の時間はない。」本当に口にしたかはわかりませんが断った理由だそうです。
新喜楽が選考会の会場に習慣的に使われ始めたのは1955年以降のようです。山本周五郎の時は別の料亭で決められたのかもしれません。
山本周五郎は大森の馬込文士村に住んだ頃、尾崎士郎達から”曲軒”とあだ名をつけられます。曲軒(きょくけん)とはへそ曲がりとか一匹狼、意地っ張りの意味だそうです。「文学は読者のためのもので賞のために書くのではない」と言います。人との交わりも苦手だったようです。質屋の山本周五郎の娘は「自分の父親も三十六さん(小説家の山本周五郎)も偉大な変人でした。」と語っています。
沢木耕太郎もペンネームです。「どこにも本名が出てきませんね」と聞かれ、「本名を名乗るのであればペンネームを使う必要はない」と答えます。彼も意地の人だと思います。
沢木耕太郎が山本周五郎に惹かれるのは読者という存在に対しての信仰に近い信頼感を抱きつづけたところ。そして自分もまた読者に支えられることで生きてこられたと山本周五郎名品館の解説エッセイで書き残します。山本周五郎の作品から常にメッセージを受け取り続けているそうです。「手を抜かない、というひとつのことを守りさえすれば、きっと読者は待っていてくれるはずだよ」と。
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