黒江屋に持ち込まれた日本橋の擬宝珠
漆器の黒江屋2階に「万治元年戌戌年九月吉日 日本橋御大工椎名兵庫」の刻印のある擬宝珠が飾られていることはご存じと思います。今回はどのようにして持ち込まれて、展示されるようになったか、その顛末を紹介します。
昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲では店舗を焼失しています。オーナーである柏原家の自宅の建物で唯一焼け残った車庫で商売を継続し、昭和21年2月には日本橋店舗の跡地にバラック建ての店舗を建てて営業を再開しています。販売したのは漆器ばかりでなく、電熱器、まな板、下駄に草履など、復興に向けた生活に欠かせない多種多様な商品でした。これらのものは午後3時頃には売り切れてしまい、その日は仕方ないので閉めるという状態で、「現金がどんどん入ってきた」と言われています。しばらくしてから本業に戻ったのでしょう。
添付の写真は、昭和20年秋当時の日本橋通りに露店が並ぶ中央通りの姿です。右側の盛り土は焼け跡でしょう。戦後復興の熱気を感じます。左手が八洲(やしま)ホテル、その向こうがGHQに接収された国分ビル。黒江屋の店舗は焼けて見えませんが、ホテルの裏側辺りにあったのでしょう。
擬宝珠の持ち込み
バラック店舗での商売開始の中、黒江屋を骨とう品屋と勘違いした顧客がいたようで、日本橋が木造だった頃の擬宝珠を売りに来ました。日本橋近くで商いを続ける黒江屋にとって、「これも何かの縁」と感じて、擬宝珠を引き取りその後ずっと保管していたそうです。
ある日家の者が擬宝珠をまじまじと見てみると、そこには「万治元年戌戌年九月吉日 日本橋御大工椎名兵庫」と刻印があり、由緒ある品に違いないとわかりました。御大工の御とは幕府用達のことですから。
下世話な話ですが、いくらで引き取ったのかを黒江屋に質問したのですが、回答は得られませんでした。貴重な擬宝珠は、黒江屋の入るビルの2階の入口のショーケース内に展示されています。木製だった頃の日本橋を飾っていた『擬宝珠』は歴史的な価値のある”お宝”として一見の価値があるでしょう。日本橋を訪ねる機会には、お立ち寄りになってはいかがですか?