ぴっか

2軒の「幾世餅」

 2軒の「幾世餅」

『絵本江戸土産』国立国会図書館デジタルコレクション

明暦の大火後に両国橋がかけられ火除け地として設けられたのが両国広小路です。両国広小路の成り立ちについてはこちらをご覧ください。

上の大きい絵が両国広小路西詰になります。多くの人でにぎわっていますね。川べりには屋根のない「御涼所」でお茶を飲んでくつろいでいる人たちがいます。「ふしや」「えびすや」という名前が見えます。橋のたもとには「川口」という「」屋が出ています。飴屋と橋をはさんで「浄瑠璃」の看板を出した小屋があります。その向かいに「めいぶつ いく世餅」の看板が出ています。小さくて見にくいので左に拡大しておきました。西詰の名物が「いく世餅」で回向院側東詰の名物が「淡雪豆腐」だったようです。『続江戸砂子』によると「幾世餅 両国はし西の詰 小松屋喜兵衛 餅を一焼きざっと焼て、餡を点す。風味美なり。」となっています。いく世餅は焼いた餅の上に餡を乗せたものだそうです。アツアツのお餅に甘いあんこ。シンプルだけれども美味しそうですね。神社仏閣にお参りにいくとなぜか門前のお店であんこのお餅やお団子を食べたくなります。江戸の世から現代まで味覚はさほど変わっていないのかもしれませんね。

落語「幾世餅」

両国広小路の「いくよ餅」は落語「幾世餅」になっています。

日本橋馬喰町の搗き米屋生真面目な奉公人の清蔵人形町の絵草紙店で見た吉原の姿海老屋の幾世太夫の錦絵に一目ぼれ(本人を見たのではなく絵)。親方は1年間しっかり働いて金を貯めたら幾世太夫に会わせてあげると約束をします。1年間真面目に働いたのでそのお給金と足りない分は親方がお金を出し、着物も貸してくれて身支度を整えてくれた上、吉原で遊び慣れた医者に仲介を頼んでくれました。医者がいう事には、遊ぶお金があっても搗き米屋の奉公人では大人気の幾世太夫は会ってくれないかもしれない。野田の醤油問屋の若旦那ということにしなさいと入れ知恵をします。うまくいって幾世太夫と会うことが叶い、しかも気に入られ次も会いたいと言われました。奉公人は実は醤油問屋の若旦那ではないと正直に告げます。奉公人の正直さ、誠実さに惚れた幾世太夫は1年後に年季が明けるので女房にしてほしいと言い出します。1年後めでたく2人は結婚し両国広小路で「幾世餅」のお店を開き繁盛して幸せに暮らしたというお話です。

ちなみに「搗き米屋」とは米問屋から米を仕入れて精米しお客さんに売る仕事です。店で精米するときは唐臼(固定された臼の中に籾を入れ、杵の先につけた長い棒を足で踏んで楽に精米できる道具)を使い、店の外では杵をかつぎ臼を転がしながら市中を歩き回り呼び止められると玄関先や道端に臼を置いて米をつき精米したそうです。

お金はないけれど勤勉で誠実な清蔵と吉原の太夫が夫婦になり餅屋を開いて幸せに暮らしたお話。実際のいくよ餅のお店はどんなお店だったのか。次の章で見てみましょう。

大岡政談での「幾世餅」

大岡政談での「幾世餅」 2軒の「幾世餅」

『江戸時代名物集』国立国会図書館デジタルコレクション

場所は変わって浅草寺仲見世にも「こんげん いくよ餅」の看板を出す店がありました。元禄時代から続くお店だったそうです。浅草へ行ったら「いくよ餅」と連想されるほど繁盛していたそうです。

この浅草の「こんげん いくよ餅」が開業してから23年後の元禄15年(1702)に両国広小路西詰小松屋喜兵衛「元祖両国 江戸一番 いくよ餅」として開業しました。この両国のいくよ餅のお店が落語「幾世餅」のモデルとなったお店です。餅の様子については「直径2寸ほどの平らな丸餅を銅板の上でさっと焦がし、その両面に餡を点じたもの。」とのこと。浅草寺仲見世の「こんげん いくよ餅」とそっくりなものだったようです。『江戸時代名物集』という筆者不詳の江戸時代の名物の商標と名物の説明を書いた本に上の写真の両国のいくよ餅の商標が載っています。残念ながら浅草のいくよ餅の商標は見当たりませんでした。

小松屋喜兵衛は車力頭(運送業)でしたが、上野の中堂御普請の人夫を請け負って成金となり吉原の娼妓であった幾世を身請け両国で妻の名にあやかった幾世餅の店を始めたそうです。

落語の「幾世餅」では搗き米屋でしたが実際は車力頭だったようです。また、落語では誠実さだけで太夫と結婚できたことになっていますが、やはり身請けのためのお金を稼いだようです。また、幾世は娼妓となっているので太夫のような格上の吉原遊女ではなかったのかもしれません。しかし、美貌や人望があったことには変わりはなかったようで吉原時代のなじみ客が来客し、のれんやビラを寄付してくれたりと宣伝してくれたおかげで浅草のいく世餅をしのぐ人気となりました。また、この小松屋喜兵衛が風変りな人だったようで禅学をはじめて店に禅僧を20人も30人も逗留させたり、娘のお松は書が上手かったので美人書家を師にして美人師弟として評判になったりと本業のいくよ餅以外でも話題となる店だったようです。

自分の店の方がいくよ餅として先に出店していたのに評判を横取りされた浅草の藤屋は、当時名裁判官として有名だった大岡越前守に訴えを起こします。大岡越前守は両者の言い分を聞いたうえで「藤家の由緒も間違いない。しかし、小松屋のいくよ餅は女房の源氏名にちなんだもので世間がもてはやす口に戸はたてられない。同名の商品なのだから同名の地名の所へ行きそれぞれ営業するのがよい。藤屋は葛飾新宿へ小松屋は内藤新宿へ。」と公平な裁判がくだった。どちらの新宿も浅草や両国に比べて田舎。そんなところへ移転しては商売にならないと両者は和解しました。

藤屋も小松屋も実際にあったお店です。しかし大岡越前守に訴訟をおこし実際にこのような判決がでたのかどうかは不明です。大岡政談は名裁判官として名高かった大岡忠相の裁きぶりを描いたもので巧みに脚色されており史実とは無関係なものも多いからです。

2軒のその後

両国広小路の小松屋は明治を迎えることなく幕末に幕を閉じたとのことです。閉店の正確な経緯はわかりませんでした。

小松屋を訴えたとされる浅草の藤屋は一旦店を閉め、天保年間に浅草橋に移転しました。そこでも好評を博していましたが様々な美味しい餅が市中に出回り、明治9年5月に閉店しました。最後の最後まで元禄時代からの「こんげん いくよ餅」の看板を店先にかけていたそうです。

現在の両国広小路周辺

現在の両国広小路周辺 2軒の「幾世餅」

両国橋からスカイツリー

 2軒の「幾世餅」

両国広小路の碑

 2軒の「幾世餅」

柳橋

両国橋、両国広小路の碑へおいでの際は柳橋はすぐ近くなので是非お寄りください。関東大震災でそれまであった橋が落橋。震災復興橋梁として昭和4年にかけられた橋です。橋のたもとには復興記念碑と説明板もあります。橋からは旧花街だったことを彷彿とさせる船宿と係留されている舟を眺めることができ独特の情緒があります。

 

【参考文献】

『江戸から東京へ』 矢田挿雲 中央公論社

『全国うまいもの』 多田鉄之助 食味評論社

『中央区の文化財3(橋梁)』 東京都教育委員会編