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東海道五十三次の「次」ってなに?

『東海道五十三次庄野人馬宿継之図』神奈川県立博物館デジタルアーカイブ

東海道五十三の「次」とは何でしょうか。

江戸時代、遠方に用事のある人や荷物を運ぶために「伝馬」制度がありました。

これは運送を引き受けた荷物を1人の人が目的地まで送り届けるのではなく、街道上に設置した宿場から宿場へとリレー方式で引き「継いで」いくシステムです。これを伝馬制度といいます。

人や荷物を五十三の宿場から宿場へ「継いで」いくから「次」なのですね。

 

冒頭の東海道五十三次の絵は現在の三重県、庄野宿での「人馬継ぎ送り」の様子を描いたものです。

向かって右側の馬から左の馬に荷物を積みかえています。荷物を運んできた人は役目を終え、キセルをふかしてリラックスした表情です。一方ここから荷物を引き受けた人たちは荷物を馬に固定したり、草鞋の紐を締めなおして出発の準備を整えています。左の問屋場では書類の確認をしています。公用の荷物であることを証明する伝馬朱印状でしょうか。

ちなみに東海道五十三次の庄野と言えばこちらの絵を想像される方が多いと思います。実は歌川広重は東海道五十三次を30種類以上も製作しています。なので同じ宿場の絵でも違うパターンがあるのです。

日本橋の3つの伝馬町の役割

豊臣秀吉の命令により江戸を本拠地にすることになった徳川家康は天正18年(1590)8月1日に江戸城に入りました。その時、三河時代から家康に仕えていた馬込勘解由(まごめ かげゆ)が随行を願い出ました。宝田村(現、丸の内1丁目付近)に屋敷を構え、村名主と公用旅行者のための道中伝馬役を務めました。慶長11年(1606)の江戸城の拡張に伴い、馬込氏は大伝馬町に移転しました。馬込氏の当主は代々多くが勘解由を名乗りました。

宝田村から現在地に移って以降、大伝馬町、南伝馬町、小伝馬町で役割がわかれました。

大伝馬町道中伝馬役(5街道の最初の宿場まで届ける)ー月の後半の15日が御朱印伝馬

南伝馬町道中伝馬役ー月の前半の15日が御朱印伝馬

     ※大伝馬町、南伝馬町で月の半分づつ公的な荷物の運送を分担しており、御朱印伝馬(無償で公用のための人馬を用意する)の担当ではない月の半分は駄賃伝馬(料金をとって一般の物流を行う)を行っていました。

小伝馬町府内伝馬役(江戸城を中心として西側の品川から四谷、板橋、千住、本所、深川を結んだ内側へ荷物を運ぶ)

小伝馬町は下の2枚目の地図の通り牢屋敷の近くであったために囚人の押送りも担っていました。

公用を無償でやらなければならないのは負担のように見えますが、税が免除になり、一般向けの有料の駄賃継立をやることが許可されていたので利点は大きかったようです。その後、大八車の登場で陸運が大きく変わって伝馬役が窮地に陥るのですが。

 東海道五十三次の「次」ってなに?

『江戸切絵図 築地八丁堀日本橋南』(一部拡大 マーカー、文字加筆)

 東海道五十三次の「次」ってなに?

『江戸切絵図 日本橋北神田浜町絵図』(一部拡大 マーカー文字加筆)

荷物を運ぶ馬のはきもの

荷物を運ぶ馬のはきもの 東海道五十三次の「次」ってなに?

歌川広重『名所江戸百景 内藤新宿』国立国会図書館デジタルコレクション

日本橋を出発して甲州街道に入り始めの宿場町がこの内藤新宿です。大きな馬の後ろ姿が印象的です。この馬は伝馬役の馬でしょうか。もしかすると日本橋から来た馬かもしれません。足にはかわいらしい草鞋を履いています。馬の蹄を守るために蹄鉄を履かせるようになったのは明治時代に入ってからです。江戸時代は草鞋でした。

 東海道五十三次の「次」ってなに?

渓斎英泉『木曽街道板橋之駅』国立国会図書館デジタルコレクション

木曽街道板橋宿となっていますが、木曽街道は通称で、中山道のことです。板橋宿は日本橋を出発して中山道の初めの宿場町です。旅人でにぎわっていますね。この絵の右側を拡大して見ましょう。

 東海道五十三次の「次」ってなに?

渓斎英泉『木曽街道板橋之駅』国立国会図書館デジタルコレクション(一部拡大)

木の後ろに筵で作られた簡素なお店があります。そこに人用の草鞋とかわいらしい丸い草鞋がたくさん下がっているのがご覧いただけるでしょうか。丸いのが馬の草鞋です。

はかせていた馬の草鞋になにか不具合が起きたのでしょうか。店先で馬の草鞋を取り換えている人がいます。

 

長崎のオランダ商館長付きの医師だったシーボルトもその様子を目撃し、『江戸参府紀行』に書き残しています。

要約すると、

・日本の細い道、険しい山道では馬が蹄を痛めてしまう。従って馬に「稲藁の靴」を着せている。

街道のいたるところで旅人の草鞋とともに馬の草鞋も掛けて売っている

・街道では旅人が落としたり捨てたりした草鞋の山があり、肥料とするために集めている人を見る。

 

街道沿いの農家の人にとって消耗品の草鞋を作って売ることは良い収入源であり、しかも不要になって捨てられた草鞋を集めて田畑の肥料を作れることはありがたかったことでしょう。

 

馬込勘解由屋敷跡と宝田恵比寿神社

馬込勘解由屋敷跡と宝田恵比寿神社 東海道五十三次の「次」ってなに?
 東海道五十三次の「次」ってなに?
 東海道五十三次の「次」ってなに?

三河の国から徳川家康に随行してきた馬込氏は当初宝田村に居を構えましたが、ここ大伝馬町に移転するときに宝田神社の鎮守様を勧請しました。宝田恵比寿神社のご神体の恵比寿像は徳川家康から拝領したものとされています。

10月19日・20日には宝田恵比寿神社を中心とした大伝馬町、日本橋本町界隈で「べったら市」が開かれます。名物のべったら漬けの露店以外にも約500店もの露店がでて多くの人でにぎわいます。特に夜の宝田恵比寿神社まえの大提灯はお祭りムードが高まります。是非、お楽しみください。

 

アクセス 

日比谷線小伝馬町駅3番出口からすぐ

 

参考資料

『大江戸リサイクル事情』 石川英輔 講談社文庫

『江戸伝馬町との関係』 品川区デジタルアーカイブ

『シーボルト江戸参府紀行』 雄松堂書店