ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

11月30日はすっとこどっこいの身内の命日です。調布市の仙川にお墓参りに行きました。

帰りにふっと調布の布多天神に行ってみようかと思い立ちます。調布は以前仕事で担当した地域ですが布多天神には行った事は無く、昨年夏までBS12で ”ゲゲゲの女房” の再放送を見ていたので鬼太郎のオブジェを見てみたいと思っていたからです。

調布駅に着くとすぐ写真のポスターが目につきました。この日、11月30日は水木しげるの命日でもあったのです。調布市は調布市名誉市民の水木しげるの功績を称え、命日を ゲゲゲ忌 として様々なイベントを行っているようです。この当日はスタンプラリーが行われていて、大勢の人で賑わっていました。

 ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

駅構内にもスタンプラリーのポイントがあり天神通り商店街にはお客さんがたくさんいました。

商店街には鬼太郎のオブジェを始めとして、ねずみ男ネコ娘一反もめんぬりかべ、それに目玉おやじのオブジェがあります。すっとこどっこいの好きな子泣き爺砂かけばばあはありませんでした。残念。

 ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

商店街の真ん中あたりには鬼太郎茶屋がオープンしていました。以前は深大寺参道にあったと思いますが移転したようで10日前に開店したばかりのようでした。これも縁があるのでしょうか。行列が出来て入店制限していました。

 ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

鬼太郎茶屋で購入したのかと思われるチャンチャンコ姿の方を随分目撃しました。ゲタも履いています。

何かに導かれたような偶然でしたし、折角なので商店街を抜けて布多天神にお参りしてきました。境内もスタンプラリーの人でごった返していました。

 ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

水木しげる は戦争中に激戦地となったラバウルに送られ、そこで敵襲を受け九死に一生を得ますが左腕を失います。帰国後手術を受けるため上京していた時、相模原病院で知り合った傷痍軍人たちと成り行きで廃墟ビルに居座ることになります。青山にあった都が管理するビルだった為退去命令を出されますが、予想通りの展開で法外なお金を要求して抵抗すると月島にあった引揚者の寮の5室に住むことを許されます。中央区沿革図集月島編の昭和20年代の火保図では寮の場所の特定は出来ませんでした。火保図とは保険会社が火災保険の料率を決めるために作られた住宅地図のようなものです。

中央区沿革図集月島編月島人国記水木しげるの住んでいた場所としてマークがされた図が載っていますが現在とは月島(今の勝どき)の地形そのものが違い、今の勝どき二丁目三丁目と判断出来る真ん中辺りに大まかに印をしたように思えます。

火保図でみると月島通八丁目九丁目に長屋が連なっています。写真の現在の勝どきビュータワー前、広場の清澄通り側です。

 ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

1941(昭和16)年に月島通八丁目に産まれた方の記憶を元に作成された地図を見ました。その方は現在の勝どき二丁目の長屋で育ち、周りの住んでいた方の苗字や並びをかなり正確に覚えています。その方の住んでいた長屋の路地を隔てた前の長屋二棟が主に中国からの引揚者用とされていた寮だったと記憶しています。地図の方角が少し違っている気はしますが、長屋の間に4本の路地があり一番外側が引揚者用の寮だったと思われ、写真の月島第二児童公園の位置あたりに水木しげるがいたと思います。

 ゲゲゲ忌 呼ばれたのは偶然か必然か

水木しげるの著書 ”ねぼけ人生” によると引揚者たちはあまり働きません。傷痍軍人街頭募金で食いつないでいました。募金に限りを感じ、食う為に魚屋の資格を取ろうとなりますが、営業の登録には新規の顧客を300軒集めなければいけません。魚も配給の為すでに登録済の家がほとんどで、困難だった魚屋登録を諦め仲間のほとんどの人が抜けます。辛うじて登録数が集まった時、人もいなく月島方面だけでいいからと一番魚屋を嫌がっていた水木しげるが魚屋に押し付けられます。片手だからとごねると助手をつけると言うし、魚屋といっても配給の魚を登録者に配るだけだと軽く考え結局引き受けます。店は無くリヤカーで回りますが助手はやる気が全然なく、水木しげる一人で市場で渡される配給分の大きな魚を切り身にして希望者に売っていきます。素人なので何の魚かもわからず、切り身の大きさもバラバラで文句言われたり大変だったようです。でも予約をとった相手に販売するため安定し、少し蓄えができた頃もう一人仲間が増え、顧客の紹介で勝どき橋の麓に小屋を借ります。これで軌道に乗ると思った頃、以前だめもとで願書を送り少し通った武蔵野美術学校から最近の出席が無いことの督促がきます。やはり芸術に未練があり、吉祥寺に通うにはあまりに遠く悩んだ時、魚屋の店舗を一緒に始めた仲間が店を売って欲しいと言うので売り払って井の頭公園そばへ引っ越しました。ここで中央区と離れます。

芸術家は資金があり余裕が無いとなれないと教えられ画家は諦めます。募金行脚で帰郷を目指した途中の神戸で泊った安宿の女主人から宿を買わないかと誘われ父親に資金援助をしてもらいアパート経営に乗り出します。その土地が水木通りで知り合いになった紙芝居屋の親方が水木さんと呼ぶので、訂正するのも面倒くさくなり水木しげるをペンネームにして紙芝居を書き始めて漫画家になります。そこから後は ”ゲゲゲの女房” で詳しく描かれています。生命力のとても強い方だと思います。自伝やエッセイも面白く興味を惹かれます。

恐いものが苦手なすっとこどっこいは他の妖気ものや気味悪いものは避けて決して見ません。ただ少年マガジンの墓場の鬼太郎は何故か読んでいました。著名人とはいえ命日を覚えていたりはしていませんが、今回の ゲゲゲ忌 はその縁で調布の駅に招いてくれたのでしょうか。