谷崎潤一郎と柿
明治19年(1886)谷崎潤一郎は当時の日本橋区蛎殻町の商家に生まれ
阪本尋常高等小学校(現在の中央区立阪本小学校)へ通いました。
現在は人形町になっている生家の跡地にこの説明板があります。(アクセス:東京メトロ日比谷線、都営浅草線「人形町」駅)
今回は谷崎の来歴や人物についてではなく柿の短歌をご紹介します。
谷崎の柿の歌
柿の実の熟れたる汁にぬれそぼつ
指の先より冬はきにけり
実は私は柿が苦手です。特に熟れた柔らかい柿が苦手です。でも、この歌は初めて見た時その美しさがとても気に入り諳んじてしまいました。
手で持ち上げたとき指が入ってしまいそうなほど柔らかい完熟した柿。一口かじると甘い汁があふれます。指を伝って手首の方までツーっと流れ落ちるその果汁に濡れた手が思ったより冷たく感じられ、今は秋だけれど目には見えない冬がそこまで来ていることを感じたことがとてもよく伝わってきます。谷崎らしい官能的な歌でもありますね。
数々の作品に食べ物や料理についての記述を残している谷崎なのですから、柿についても何か書き残しているのではないかと思い作品を探してみました。
生温かい果物は嫌い?
『吉野葛』の中に奈良の吉野で「ずくし」と呼ばれる柿をごちそうになったときの描写がありました。抜粋します。
しきりにすすめられるままに、私はいまにも崩れそうなその実の一つを恐々手のひらの上に載せてみた。円錐形の、尻の尖った大きな柿であるが、真っ赤に熟し切って半透明になった果実は、あたかもゴムの袋のごとく膨らんでぶくぶくしながら、日に透かすと琅(ろうかん)の珠のように美しい。市中に売っている樽柿などは、どんなに熟れてもこんな見事な色にはならないし、こう柔らかくなる前に形がぐずぐずに崩れてしまう。(中略)
これを食うには半熟卵を食うようにへたを抜き取って、その穴から匙ですくう方法もあるが、やはり手はよごれても、器に受けて、皮を剥いで食べる方が美味である。(中略)
私はしばらく手の上にある一顆の露の玉に見入った。そして自分の手のひらの中に、この山間の霊気と日光とが凝り固まった気がした。(中略)
私がもし誰かから、吉野の秋の色を問われたら、この柿の実を大切に持ち帰って示すであろう。
どうでしょう?もしや、あの柿の短歌はこの柿のことなのではないかと思うくらいです。
また、谷崎の3度目の結婚相手松子の孫娘で谷崎とは血がつながっていいなかったけれど谷崎をおじいちゃんと慕い、谷崎もかわいがっていた渡辺たをりが『花は桜、魚は鯛』の中でこう言っています。
祖父は果物の皮を絶対に人にはむかせませんでした。
「人にむいてもらった果物なんか、生あったかくて食べる気がしないよ」
というのです。晩年は手が痛くて、冷えると言って指の出る手袋をはめていたのに、その手で皮をむきます。だから、祖父の食べる果物は桃とか柿とか無花果とか、皮のむきやすいものに限られていました。
生温かい果物が嫌とは!柿の実の汁がひんやりとしている歌にぴったりのエピソードではありませんか。
手が痛かったから剥きやすい果物を食べていたということもあるとは思いますが、柿はもともと好きだったのではないでしょうか。桃、柿、無花果ともに食感が近いですね。柔らかくてとろんとした果物が好みだったのではと思います。
作品の中の中央区のグルメ
美食家であり、食べ物への探求心の尽きなかった谷崎は作品の中にたくさんの食べ物の描写をしています。
その中で中央区のお店の記述のあるものを探してみました。
・浜作(銀座7丁目) 昼食(何を食べたのか不明) 『細雪』
・資生堂(銀座8丁目) ブレイン・ソオダ 『金と銀』
・玉ひで(人形町1丁目) 鳥 『女人神聖』
・神茂(日本橋室町1丁目) はんぺん 『女人神聖』
・榮太樓(日本橋1丁目) もなか 『女人神聖』
・空也(銀座6丁目) 和菓子 『花は桜、魚は鯛』渡辺たをり
所在地は現在のものです。現在閉店している店は含めませんでした。また、見逃しもあるかもしれません。ご興味のある方は是非探してみてください。
春琴抄の碑(大阪)
関東大震災後、谷崎は関西に移住します。
大阪の道修町(どしょうまち)を舞台にした小説『春琴抄』の碑が大阪市中央区道修町の少彦名神社の入り口にあります。(アクセス:大阪メトロ堺筋線北浜駅5分)
道修町は江戸時代から薬種問屋が軒を連ねていた町で現在でも製薬会社が多くあります。日本橋本町と似ていますね。
『春琴抄』でも食べ物の描写がでてきます。端麗にして高麗な容姿の春琴は食べ物に贅を尽くし、わがままな食べ方をする女性でした。
【参考文献】
『歌々板画巻』棟方志功 板 谷崎潤一郎 歌(中公文庫)
『吉野葛』(青空文庫)
『女人神聖』(谷崎潤一郎全集第7巻 中央公論社)
『金と銀』(国立国会図書館デジタルコレクション)
『細雪』(青空文庫)
『春琴抄』(青空文庫)
『花は桜、魚は鯛』渡辺たをり(中公文庫)
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