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中央区ものしりクイズ25

問題

問題 中央区ものしりクイズ25

解答と解説

1 まるごとミュージアムです。 

「中央区まるごとミュージアム」は、中央区全体を一つの大きな美術館に見立てて、様々な文化施設や歴史的な名所、企業などが参加するイベントです。
 毎年秋に開催されます。
 * 開催場所: 中央区内の全域
 * 内容:
   * 通常は公開されていない場所が特別に公開される。
   * 普段は有料の施設が無料で開放される。
   * 伝統文化の体験、ワークショップ、まち歩きツアー、スタンプラリーなど、様々なイベントが開催される。
   * バスや船の無料運行など、区内の移動をサポートするサービスも提供される。

2万国博覧会です。

1940年に開催される予定だった「幻の万国博覧会」は、「紀元2600年記念日本万国博覧会」として計画されたものです。
 * 会場: 東京都の晴海・月島埋立地と、横浜市の山下町など
 * 開催予定時期: 1940年3月から8月まで
 * 背景: 1940年(昭和15年)は、神武天皇即位から2600年目にあたるとされ、国威発揚を目的とした大規模な記念事業の一環として計画されました。
中止の理由
しかし、この万博は実現することなく、「幻の万国博覧会」となりました。その最大の理由は、日中戦争の長期化です。
 * 国際情勢の悪化: 日中戦争の激化に加え、国際連盟からの脱退などにより、日本は国際的に孤立を深めていきました。
 * 諸外国の不参加表明: イギリスやフランスなどが参加を見送る動きを見せたことで、万博の国際的な意義が薄れていきました。
 * 資源の集中: 戦争の継続に必要な物資や資金を確保するため、国家総動員体制が敷かれ、博覧会のような平和的なイベントの開催は困難になりました。
こうした状況から、1938年(昭和13年)に万国博覧会は開催中止が決定されました。なお、同じく紀元2600年記念事業として計画されていた「1940年東京オリンピック」も、同じ理由で返上されています。


3 関東大震災です。

関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日11時58分に発生した大地震によって引き起こされた、甚大な被害をもたらした災害です。
概要
 * 発生日時: 1923年(大正12年)9月1日11時58分
 * 震源: 神奈川県西部(相模湾北西部)
 * 規模: マグニチュード7.9と推定される
 * 最大震度: 震度6(当時の震度階級の最大)を埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で観測しました。
被害
 * 死者・行方不明者: 約10万5千人
   * 死者の多くは、地震発生が昼食の時間帯と重なり、多くの家庭で火を使っていたために発生した大規模な火災によるものです。特に東京市本所区(現在の墨田区)では、「火災旋風」と呼ばれる現象により、多くの人が亡くなりました。
 * 家屋被害: 全壊・全焼・流出家屋が約29万3千棟に上りました。特に東京と横浜では、家屋の6割が被害を受けました。
 * その他の被害:
   * 津波: 静岡県の熱海で12m、房総半島の相浜で9.3mの津波が観測されました。
   * 土砂災害: 神奈川県の山間部では、山崩れや崖崩れ、それに伴う土石流が発生しました。
   * 液状化現象: 震源から離れた埼玉県などでも、広範囲で液状化現象が発生しました。
   * インフラ: 電気、水道、道路、鉄道といったライフラインにも壊滅的な被害が出ました。


4永代です。

永代橋は、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の時代に、その生誕50年を祝う記念事業として初めて建設されました。

永代橋の初代が架けられたのは、元禄11年(1698年) のことです。この年に、当時の将軍であった徳川綱吉が50歳を迎えるにあたり、その祝賀事業の一環として建設されました。
この初代の永代橋は、深川と日本橋を結ぶ重要な橋となり、江戸の交通の発展に大きく貢献しました。また、上野寛永寺の本堂建設で余った材木が資材として使われたともいわれています。

初代の永代橋は、その後もたびたび架け替えられましたが、文化4年(1807年)の深川富岡八幡宮の祭礼では、群衆の重みに耐えきれず落橋し、多くの死傷者が出るという大惨事も起こしました。
現在の永代橋は、1923年の関東大震災で焼失した後の、震災復興事業として再建されたものです。この復興橋は、その堅牢で重厚なデザインから「帝都東京の門」と呼ばれ、日本の近代橋梁技術の象徴として、国の重要文化財に指定されています。
このように、永代橋の歴史は、徳川綱吉が建設を命じた初代の橋から始まり、その後の再建を経て現代に受け継がれているのです。