たどろー

川や堀があった空間

こんにちは。暑くなってきたので、水の流れを想像しながら歩くことができる昔の川筋、堀の跡をぐるりと廻ることにした。神田駅から数分南に直進すれば、中央区と千代田区の区境となっている龍閑川(神田堀)跡に出くわす。江戸時代は川幅が10m近くあった、との記録もあるが、今は写真(奥側が外壕からの分岐点でこの川の起点。大手町の高層ビルが見える)の通り、中層階のビルの壁に流域跡の大部分が挟まれた感じで、その幅は2~3メートル程。しかしまっすぐな川筋がわかりやすく、昔の水の流れは想像しやすい。おまけにこの壁がつくる日陰で少し涼しい。そよっと風もくる。途中、中央通りや、昭和通りに流路はさえぎられるが、それを越えてまたまっすぐに続く。川筋が、たまたま「残っている」のではなく「残している」ことが感じとれてうれしい。やがて十思スクエアが右手に見えてくる。中央区の静かな北縁を歩いている実感が湧く。そのまま龍閑児童公園に入る。中央区と千代田区の共立公園。川と橋のモニュメントがかつてのこの川の流れを彷彿とさせてくれる。そこから右に曲がり、南東に向かって流れていた浜町川跡を南下する前に、北側の神田川方面に足を延ばしてみる。1つは浜町川の神田川までの流路跡を見たかったので。民間の青空駐車場になっている所もあり、極端に狭い部分が続く。最後は民有地なのか、神田川への注ぎ部分は見ることが出来なかった。もう1つ気になったのは、区境。公園から北側に延びる龍閑川跡より先の区境は、不自然に屈折を繰り返し神田川に行き着く。この辺りの区境は、龍閑川のさらに北を流れていた神田大下水の最下流部分に極めて近い。この大下水の流路跡はほとんど確認できなかったのがなんとも歯がゆいが、果たして両者は何か関係があったのだろうか。今後調べてみたい。

人形町に入る

人形町に入る 川や堀があった空間

さて、龍閑児童公園に戻って、浜町川跡を南に下る。かつてこの川の川幅は龍閑川以上で、水運の幹線であった。両側には荷物の揚げ降ろし、そして商品の売買を行う場所ともなっていた「河岸(かし)」が連なっていた。ちなみにさきほどの龍閑川は当初は単なる下水(雨水や生活用水を流す川。汚物は混じらない)として誕生したが、その後拡幅され、運河として重要な役割を果たしたらしい。けれどもこの川沿いの「河岸」は早々に廃れてしまったようだ。その差が現在にどのように現れているか。浜町川跡も久松小学校あたりに来るまでは、龍閑川跡と同じように両側をビルに挟まれ、所によっては通り抜けさえできない。しかし人形町、浜町に入るあたりから緑地公園となり、残された川幅もぐんと広がる。人々が椅子に腰かけ、談笑している。江戸時代は、現代のように行政主導で作られた「公園」はなく、水運が盛んで町人たちが行き交う川のほとりに、自然発生的に遊興、公共の場となる空間が出来上がったという。今、川はない。けれどもその川の跡を公園にして、どのような人でも気軽に時を過ごせる場所が提供されている。そして浜町川から少し離れ、昔存在していた「へっつい河岸」の南岸にあたる末廣通りを歩いていると、写真(左右に抜ける道が末廣通り)のように交差点の真ん中に人々が踊るための「櫓(やぐら)」が建てられ、おそらく町内会であろう方々が祭りの準備をしていた。人形町通りからの車の進入は1台の移動式フェンスで遮られているだけで、その前におばあちゃんが一人座って監視役。昔、元吉原があった界隈とはいえ、今でも残る遊興まじりの雰囲気・・・。それにしても同じ川筋跡でありながら龍閑川跡や人形町に至るまでの浜町川跡と、ここ人形町界隈に残された空間の雰囲気はずいぶんと違う。利便性の違いなどから、川の埋め立て時期も異なるなど、街の賑わい、雰囲気には以前から差があったらしいが、それが今に引き継がれている。明治維新、震災、戦災など多くのできごとを乗り越えてなお存在するその差に、不思議さを覚える。

 

 

箱崎へ

箱崎へ 川や堀があった空間

再び浜町川跡に戻り、箱崎まで南下。新大橋通りを過ぎた最下流部分は、高速道路の高架下。そこも公園になっている。そのどんつきが、浜町ポンプ場(まっすぐは行けず、少し迂回する)。ここで、浜町川跡はじめ地下を流れる雨水などをろ過して隅田川に放水しているらしい。地図には載っていない多くの暗渠がいまだ現役で活躍しているということか。この首都高向島線6号の箱崎・中州ー蛎殻町・浜町間の下は昔の箱崎川だが、言われてみなければ全くわからない。しかし昔は隅田川と日本橋川を結んでいた要路で、ここも多くの「河岸」で賑わっていたという。箱崎川と隅田川の間に真砂座が進出したのも、その証左かもしれない。あたりは、人形町界隈と違って非常に静かで車も人もほとんど行き交わない。そんな空気の中、ある大手しょうゆメーカー東京支店の入口付近に立ち止まった時、感じた。これは舟をかたどっているのではないか(写真)。建物のすぐ右側の道は昔の水路。そこに漕ぎ出すイメージが容易に浮かび上がる。銚子との行き来の名残りを表しているのかもしれない。(筆者の勝手な想像です) すぐ西側には東稲堀(とうかんぼり)や行徳河岸の跡もあり、静かなだけに往時の賑わいがここでも偲ばれる。

 

 

川や堀があった空間

川や堀があった空間 川や堀があった空間

この箱崎川跡でも左の写真のように、祭りの準備が始まっていた。江戸時代、江戸の町は大名地や寺社地が大部分を占め、町人地の割合は極めて小さかった。しかし当時の中央区エリアは、隅田川、箱崎川流域以外はほとんどが町人地。町人地特有の密集、そして相互監視の息苦しさから、多くの町人たちが、空が広がり、見晴らしのきく川や堀に足を向けたことだろう。しかし最後に訪れた箱崎川跡の上には広がる空はない。もちろん川もない。残念な思いはぬぐえない。ただそれでもなお、この箱崎に限らず、多くの人々が、残されたもと水辺だった空間を、色々な形(散歩・散策、おしゃべり、祭りなど)で楽しんでいることに癒される感じがした。

 

☆歩いたルート

 川や堀があった空間