シーボルトがやって来る!ヤァ!ヤァ!ヤァ!
ラジオに出た。中央FM。4回目か5回目になる。今回は「シーボルトがやって来る!ヤァ!ヤァ!ヤァ!」という新番組で、シーボルト江戸参府200年を記念したものだ。第二回のゲストとして呼ばれた。
パーソナリティは舞台「シーボルト父子伝」の主演、鳳恵弥さんとJUMIさん。そこにシーボルトから数えて六代目にあたる関口忠相さんも加わって、4人でトークした。
企画をもらったのは1月中旬。「シーボルトと江戸末期の三賢者(伊能忠敬、高橋至時、高橋景保)について話してくれ」というザックリした依頼だった。正直、シーボルトと伊能忠敬は少しだけ知っていたが、高橋至時と高橋景保については全くの素人だった。ネットやYouTube、ChatGPTで情報を集めた。すると見えてきたのだ。この三賢者とシーボルトの深い関係が。
伊能忠敬は50を過ぎてから、19歳も年下の高橋至時に弟子入りした。至時は幕府天文方で西洋天文学を研究していた。二人は協力して日本全国の精密な測量事業を推進し、忠敬は生涯をかけて日本地図を作った。至時の息子、景保は父の死後、幕府天文方の職を継いだ。西洋の天文学や地理学を熱心に研究していた。
シーボルトが長崎の出島に来たのは1823年。忠敬はすでに5年前に、至時は19年前に死んでいた。シーボルトが実際に交流できたのは景保だけだった。
横浜薬科大学の梶輝行先生の最新研究によって、シーボルト事件の真相が明らかになった。従来は「シーボルトが地図を欲しがり、景保がそれに応じた」と理解されてきたが、実際はまったく逆だった。景保は1826年の江戸参府の際、オランダ商館長に伊能図の銅版印刷を依頼していた。その目的は、1825年の異国船打払令に象徴される対外関係の緊迫化を背景に、日本の国家の在り方を明確にして対外防衛に備えるという壮大な構想だった。景保は商館長に相談した後、シーボルトの部屋も訪ね、同じように地図を見せて銅版印刷の構想を伝えている。
つまり、景保がシーボルトに接触した目的は、西洋の知識を得ることではなく、父と父の弟子だった忠敬が心血を注いで完成させた精密な日本地図を世界に知らしめ、日本を守ることだった。その後、商館長が交代したため、景保はこのプロジェクトをシーボルトに託した。これが1827年に景保からシーボルトへ地図が渡った真相だ。
だが当時の日本では地図の海外流出は国家機密の漏洩とされた。1828年、シーボルト事件が起きた。景保は捕らえられて獄死。シーボルトは国外追放になった。景保の壮大な構想は頓挫し、景保の獄死によって事実確認もできず、この真相は200年近く埋もれていた。
番組で関口忠相さんに聞いた。シーボルト台風で船が難破して積み荷から地図が見つかったという話は、後世の創作だそうだ。実際は間宮林蔵にシーボルトが送った手紙が幕府方に渡り、そこから捜査が入って、シーボルトと関係者が処罰されたという。
シーボルトの人物像についても聞いた。若い頃はかなり血気盛んで、33回も決闘をした記録が残っているらしい。日本に来てからもオランダ商館長に決闘を申し込んだ記録があるという。
ちょうど200年前、長崎から江戸へ来て一か月あまり滞在したシーボルト。この記念すべき年に、梶先生の研究によって明らかになったシーボルト事件の真相や、三賢者の功績が再認識されることを願う。
再放送は2月10日(火)22時から22時半。もしよかったら聴いてみてください。
オフィシャル