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新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

「新川」を起点に特派員活動をしている「New River」です。

今回のブログは久しぶりの「新川に架かる9つの橋」シリーズ(※)です。そして、シリーズ5回目、最終回となり、最後にご紹介する9つ目の橋は、国指定重要文化財の「永代橋(えいたいばし)」となります。

永代橋は、元禄11年(1698)8月に江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝して創架されたとされ、それ以来320年以上にわたる歳月の中で、幾度も架け替えが行われてきました。

そこで、今回のブログは、永代橋の架け替えにスポットを当て、創架から現在までの歴史を追ってみたいと思います。

※ これまでの本シリーズは以下のとおりです。下図(「新川に架かる9つの橋」地図)をご参照のうえ、ご覧いただければ幸いです。

シリーズ1回目:湊橋・豊海橋(2023年7月24日公開)

シリーズ2回目:霊岸橋・新亀島橋・亀島橋(2023年9月26日公開)

シリーズ3回目:高橋・南高橋(2023年11月27日公開)

シリーズ4回目:中央大橋(2024年7月25日公開)

 

 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

 

*トップ画像は、永代橋をバックに撮影した、豊海橋(とよみばし)北詰東側の隅田川テラス入口にある、永代橋の案内板です。この案内板には『東都名所永代橋全図(とうとめいしょえいたいばしぜんず)』(初代 歌川広重(寛政9年(1797)~安政5年(1858))画)が紹介され、「隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、幟が立つ高尾稲荷社へ参詣する人びとの姿などもみられ、詩情豊かな情景が描かれています」との説明があります。江戸時代の永代橋は、この付近から隅田川に架けられていました。

元禄11年(1698)8月 創架

永代橋は、前述のとおり、元禄11年(1698)8月に第5代将軍・徳川綱吉の50歳を祝して創架されたとされ、隅田川に架かる橋の中で4番目に古いものです(※1)。

橋名は、隅田川河口にあった「永代島(えいたいじま)」(※2)と呼ばれる中洲に由来するというのが通説ですが、綱吉の50歳を記念して命名されたという説もあります。

工事は、幕府が関東郡代・伊奈忠順(いなただのぶ)(生年不詳~正徳2年(1712))に命じ、上野寛永寺根本中堂造営の余材を用いて造られ、架橋発令から数か月程度で完成したといいます。

橋の規模は、橋長110間(約200m)、幅員3間余(約6m)に及ぶ堂々たる木橋で、橋下を往来する船舶に配慮して、満潮時でも水面から1丈(約3m)以上の高さが確保されていました。

永代橋は、幕府が架設、管理していた公用橋でしたが、第8代将軍・徳川吉宗による享保の改革で緊縮政策が打ち出されると、老朽化が目立っていた橋の維持・管理が困難となり、享保4年(1719)、創架からわずか21年で廃橋が決定されました。しかし、町人たちはこの決定に反対し、払い下げを嘆願した結果、維持・管理に伴う諸費用をすべて町方が負担することを条件に存続が許されました。

それ以降、永代橋は民間が管理する橋となったのです。

※1 永代橋より古い各橋の創架は、千住大橋が文禄3年(1594)、両国橋が万治2年(1659)、新大橋が元禄6年(1693)といわれています。

※2 現在の江東区永代・佐賀・門前仲町あたりといわれています。

文化4年(1807)8月 崩落

文化4年(1807)8月 崩落 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

民間が管理する橋となった永代橋は、享保14年(1729)に架け替えが行われ、その後も架け替えや修理を重ねながら、姿を変えてきました。

そして、文化4年(1807)8月19日、その事故は起こりました。

その日は深川・富岡八幡宮(江東区富岡)の12年ぶりの祭礼(深川八幡祭り)で、江戸市中から多くの群衆が永代橋を渡って、深川に押し寄せていました。

午前10時頃、永代橋では、徳川御三卿(とくがわごさんきょう)の一つに数えられる一橋徳川家の御座船(ござぶね)が橋下を通過する予定となっていたため、橋上では通行規制が敷かれていました。やがて御座船が通過して通行規制が解除されると、多くの群衆が一斉に橋上へとなだれ込み、その重みに耐えかねて、永代橋はついに崩れ落ちました。そこへ、なお橋の崩落に気づかぬ後方の人々が続々と押し寄せ、前方の人々は次々と川へと転落していったのです。

上の画像は、その崩落の瞬間を描いた『永代橋壊落図』(東京古今図史、大正14年(1925)刊)で、犠牲者は1,400人を超えたともいわれています。

この事故について、『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』でもおなじみ “ 蜀山人(しょくさんじん) ” こと大田南畝(おおたなんぽ)は、「永代と  かけたる橋は  落ちにけり  きょうは祭礼  あすは葬礼」という狂歌を残しています。

崩落の直接の原因は、多くの群衆による過荷重であることは明らかですが、間接的な原因として考えられるのが、①上野寛永寺根本中堂造営の余材を用いて、短期間(数か月程度)で造られたこと(前述)、②当時の永代橋は隅田川河口に位置し、海水や風雨による腐食、船舶の衝突による損傷の程度が大きかったこと、③永代橋の管理が幕府から民間に委ねられ、十分な維持・管理ができていなかったことなどがあげられます。

この事故を受け、永代橋の管理は再び幕府に移され、翌年の文化5年(1808)に再び架橋されました。しかしその後も、洪水による流出や船舶の衝突による損傷が相次ぎ、橋は幾度となく架け替えや修理を余儀なくされました。

 

 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

こちらの画像(浮世絵)は、初代 歌川広重『不二三十六景』シリーズ(※)の『東都永代橋佃島(とうとえいたいばしつくだじま)』です。

隅田川河口に架かる永代橋(手前右)と佃島(正面左)の夕景で、夕焼けをバックに富士山がシルエットとなり、停泊する弁才船(べざいせん)、橋下を通過しようとする高瀬舟(たかせぶね)、橋を渡る人々が描かれています。

※ 本シリーズは、富士山をテーマとした全36枚の作品で構成され、嘉永5年(1852)に佐野屋喜兵衛(さのやきへえ)によって出版されました。さらに、広重没後の安政6年(1859)には、蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)による『冨士三十六景』シリーズも出版されています。

明治8年(1875)3月 洋式の木橋に架け替え

明治8年(1875)3月 洋式の木橋に架け替え 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

明治8年(1875)3月、永代橋は洋式の木橋(最後の木橋)に架け替えられました。

上の画像(浮世絵)は、その木橋で、三代目 歌川広重(天保13年(1842)~明治27年(1894))が描いた東京第一名所 永代橋之真景(とうきょうだいいちめいしょ えいたいばしのしんけい)』です。

絵の上部右側にタイトルがあり、その左側に「明治八乙亥年 三月出来 長サ百四間 巾六間 左右人道 中馬車」と書かれているので、この橋は、明治8年(1875)3月に完成し、橋長104間(約189m)、幅員6間(約11m)、橋の左右は歩行者、中央は馬車が通行するように区分けされていたことがわかります。

隅田川右岸には多くの蔵が立ち並び、川には多くの船舶が往来しています。また、絵の右側(富士山の下)にわずかに見えるのは日本橋川に架かる豊海橋で、この頃の永代橋は、現在の橋よりも上流部(北側)にあったことがわかります。

 

 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

こちらがその洋式の木橋と伝えられる画像(回顧八十年史(昭和15年(1940)刊))です。

明治30年(1897)11月 日本初の鋼橋に架け替え

明治30年(1897)11月 日本初の鋼橋に架け替え 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

こちらの画像は、明治30年(1897)11月に架け替えられた永代橋で、東詰北側(現在の江東区佐賀一丁目1番地先)から撮影されたものと思われます。最後の木橋から22年後の架け替えです。

道路橋としては、日本初の鋼橋(※)となり、橋長100.2間(約182m)、幅員7.8間(約14m)、構造は3径間のプラットトラス橋で、これまでの橋よりも約150下流に架けられました。

※ 鋼橋とは鋼鉄を使用した鉄橋です。鉄橋に使用される鉄の種類は、強度や耐久性などの観点から、鋳鉄、錬鉄、鋼鉄などと変化してきました。以下に、一般社団法人 日本鉄鋼連盟のホームページを参考に鉄橋の歴史をまとめましたので、ご参考ください。

・慶應4年(1868)くろがね橋(長崎市)… 日本初の鉄橋。海外から輸入した鉄(錬鉄)を使用

・明治11年(1878)八幡橋(旧弾正橋)(江東区)… 日本初の国産鉄(鋳鉄と錬鉄の組合せ)の鉄橋

・明治21年(1888)天竜川橋梁(磐田市~浜松市)… 鉄道橋として日本初の鋼鉄製の鉄橋(鋼橋)

・明治30年(1897)永代橋(中央区~江東区)… 道路橋として日本初の鋼鉄製の鉄橋(鋼橋)

大正12年(1923)9月 関東大震災で被災

大正12年(1923)9月 関東大震災で被災 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

日本初の鋼橋への架け替えから26年、大正12年(1923)9月1日に関東大震災が発生、永代橋も被災しました。

上の画像(関東震災画報 第2集(大正12年(1923)刊))でもわかるように、鉄骨トラスは残り、落橋は免れたものの、木製の床板は焼け落ち、橋上に人の姿が確認できますが、車は通行できない状態でした。また、トラスの右側(下流側)は消失した仮橋(木橋)の残骸です。実は、永代橋は震災前から架け替え工事が始まっており、仮橋の上には市電のレールが敷設されていました。写真の左下には焼けて台車だけになった市電(木造車両)の残骸も見られます。

大正15年(1926)12月 震災復興事業により架け替え(現在の永代橋)

大正15年(1926)12月 震災復興事業により架け替え(現在の永代橋) 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

大正15年(1926)12月、震災復興事業の一環として架け替えられたこの橋が、今冬で架設から99年を迎える現在の永代橋です。

上の画像、左側のアーチ橋がその橋で、右側に見えているトラス橋が旧橋になります。この画像は永代橋の西側(現在の中央区側)から撮影されているので、旧橋の上流側に新橋が架設されたことになります。

永代橋は、太平洋戦争の空襲にも耐え、戦後55年の平成12年(2000)に「近代橋梁技術の粋を集めて造られた隅田川震災復興橋梁群の中核的存在」という理由で、清洲橋(きよすばし)とともに、第1回 選奨土木遺産(土木学会選定されました。

また、平成19年(2007)には「新たな鋼材を使うことで最大支間(さいだいしかん)を実現した鋼アーチ橋」などの評価により、清洲橋と勝鬨橋(かちどきばし)とともに都道府県が管理する道路橋として初めて国の重要文化財に指定されています。

文化庁の文化遺産オンライには、その特長について、以下のような説明があります。

>永代橋は、清洲橋と同様に、帝都復興事業の一環として、内務省復興局土木部長太田圓三(おおたえんぞう)らの設計により、大正15年12月に竣工した、橋長184.7m、幅員25.6mの規模を有する広幅員の三径間カンチレバー式タイドアーチ鋼橋である。橋脚及び橋台は鉄筋コンクリート造で、上部構造は、橋端部に水平力の及ばない支間長100.6mの下路式タイドアーチと、その両側の突桁及び吊桁により構成され、突桁は、タイドアーチと連続的な曲面をつくる。
 永代橋は、放物線状の大規模ソリッドリブアーチを中心とする荘重な造形により、近代的橋梁美を実現している。また、建設当時、我が国で最大支間を実現した鋼アーチ橋であり、大規模構造物建設の技術的達成度を示す遺構として重要である。

 

 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

都電が通る、昭和33年(1958)頃の永代橋(永代橋西詰南側、現在の新川一丁目31番地先から撮影)。

 

 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

現在の永代橋。昨秋、朝顔が咲く新川公園付近から撮影。この日は朝から良い天気で、空にはいわし雲が広がっていました(2024年9月10日、午前7時半頃撮影)

おわりに

「新川に架かつの橋」と題し、2023年7月の「湊橋・豊海橋」から5回シリーズでお届けしてきましたが(だいぶ時間がかかってしまいましたが)、いかがだったでしょうか。

橋は、古来より川や谷などの障害物を越え、人々の往来を可能とし、村や街をつなぐインフラとして経済活動を支えてきました。また、人々の出会いや別れの舞台にもなり、数々の歴史やドラマを生み出してきました。

水都・中央区、これからも新川に通う限り、私は9つの橋のいずれかを渡ります。

私にとって「新川に架かる9つの橋」はなくてはならない存在です。

 

【主な参考文献・WEBなど】

・中央区の橋梁・橋詰広場 -中央区近代橋梁調査-(1998年発行、中央区教育委員会)

・橋から見た隅田川の歴史(2002年発行、飯田雅男著、文芸社)

・江戸の橋(2006年発行、鈴木理生著、三省堂)

・【土木史研究 講演集 Vol.27 2007年】江戸の橋年表(2007年発行、松村博著、土木学会)

・大江戸橋ものがたり(2008年発行、石本馨著、学習研究社)

・東京今昔 橋めぐり(2013年発行、東京今昔研究会編著、ミリオン出版)

・歩いてわかる中央区ものしり百科(2024年発行、JTBコミュニケーションデザイン)

中央区を、知る  about Chuo City(永代橋)

コア東京Web(Kure散歩 東京の橋めぐり 第3回 永代橋(その1))

コア東京Web(Kure散歩 東京の橋めぐり 第4回 永代橋(その2))

道路WEB(永代橋)

 

 新川に架かる9つの橋 (シリーズ5回目(最終回):永代橋)

 

*永代橋の歴史は古く、橋名の由来や橋の規模、架け替えの時期などには諸説が存在するため、本ブログでは私自身の判断により最も妥当と思われる説をもとに記述しています。

*また、掲載しているモノクロ写真および浮世絵は、中央区立京橋図書館(地域資料室)よりご提供いただいたもので、事前に掲載許諾を得たうえで使用しています。